ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.161 三国特急

 欧州において国際列車は珍しい存在ではない。ひとたびドイツやスイスの大規模な駅へ行けば、一時間のうちに一本は少なくとも国際列車を見ることができるだろう。近年では、近距離の移動に対して飛行機を使うことによる環境への負荷を減らそうという、いわゆる”飛び恥”なる世論と合わせて、国際列車の立場は向上の一途である。これまでは、他国への乗り入れの簡便性から国際列車には客車が多く使われてきたが、近年では利便性の向上のため徐々に電車列車による国際列車が増えてきている。このような列車の一つがEuroCity-Express(ECE)である。ECEは現在7往復が運転されており、そのうちの1往復はドイツ・フランクフルトとイタリア・ミラノをスイス経由で8時間かけて運転される長距離電車特急である。このECEに使用されるスイス国鉄RABe503形のうちの1本、第22編成は、ECEのプロモーションを兼ねてドイツ・スイス・イタリアの国旗とともに、走行経路沿線の有名な建造物をあしらった特別ラッピングを施されている。だがしかし、RABe503自体はECEのみならず、スイス国内外の列車で使用されているため、この特別ラッピングを狙って撮影するのはなかなかに至難の業である。

 2019年の訪欧の際、WassenにてVSOEを撮影後も快晴が続いていたため、先に帰国する友人をBrunnenの駅まで送り届けた後、Steinenのストレートへと足を向けた。Steinenはゴッタルド峠を通るすべての列車が通過する地点なため、暇つぶしにはもってこいの場所である。Steinenのストレートの背後、北側に位置するのはRossberg山。比較的開拓が進んでおり、そう高くないように見える山なのだが、それでも最高峰のWildspitzは海抜1580mの立派な山脈である。(日本であると、八甲田山由布岳あたりが標高としては近い。)

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 撮影地でのんびりと昼下がりの貨物や優等列車を撮影していると、チューリヒ発ミラノ行のEuroCity EC19がやってくる時間となった。この列車はRABe503/ETR610(RABe503と同型の車両である)によって運行されるものであったので、何が来るか楽しみに待っていると、幸運にもやってきたのは第22編成、三国ラッピングの編成であった。通常塗装の車両も悪くはないが、やはり一編成だけのイロモノとなるとうれしいものだ。次はぜひドイツにて撮影してみたいものだ。

Report No.160 マルチプレイヤー

 本邦でオール二階建て車両というとE1系新幹線やE4系新幹線、あとは先頭車に目をつむれば215系程度であるが、諸外国に目を向けるとオール二階建て車両というのは存外メジャーな車両カテゴリーである。通勤電車というジャンルの中で見ても、諸外国、特に欧米では大都市圏を中心に数多く二階建て車両が運用されている。むしろ、日本の首都圏のように平屋の通勤電車が10両や15両といった長大編成で走っていることのほうが珍しいのではないだろうか。

 軌道条件や車両限界等、種々理由はあるのだろうがダイヤ設定における思想の違いも一つ大きな要素としてある。日本で通勤電車といえば、停車時間は主要駅で1分以上あれば長い方である。むしろ、大阪や東京といった地域の通勤電車であれば、30秒以内の停車というのが最長といったところも多いかと思う。これは、日本の通勤需要が他国に比べても異様に高いが故の過密ダイヤであることに起因しているものだろう。対して、欧米と言えば、通勤時間帯でも比較的余裕のあるダイヤ設定となっている印象だ。だからこそ、日本では半ば失敗に終わってしまった215系のようなオール二階建て車両でも通勤電車として運用することが可能なのだろう。

 スイスにおいては、通勤から都市間急行列車まで幅広く二階建て車両が活躍している。そして、これらの運用を手広くこなしているのがRABe511形電車である。スイス・Stadler社製のこの車両、近年ではKISSの愛称のもとに西欧のみならず東欧圏、はたまた旧ソ連圏各国へ輸出されており、欧州製電車の新標準の一つとなりつつある。RABe511の中でも特に地域間急行Regio Express(RE)に充当されるものは6両編成のものがあり、その二階建ての巨体も相まって被写体としては迫力十分である。2017年の渡欧では、SevelenにてEuroNightの撮影(Report No.110 Guten Morgen - ぽっぽ屋備忘録)ついでにと、RABe511にて運行されているChur行きREを撮影した。

RABe511 RE Chur

 ぱっと晴れたSevelenの町から見るAppenzell Alpsの美しいこと。秋の寒さに少々凍えながら構えているとRegio Expressがその巨体に似つかわしくない静かさで滑るように走ってきた。背後の山と距離があるとは言え、さすがは2階建て。画面の山の高さの半分にも迫ろうかというそのマルチプレイヤーの巨体は勇ましい限りだった。

Report No.159 共産主義の大地

  1917年11月7日、世界は初めて社会主義国家の成立を見た。のちにソビエト連邦となるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生であった。第二次大戦下のソビエト連邦では、マルクス・レーニン主義大義名分の名のもとに、集団農業化や重工業を主とした計画経済が強硬に推し進められた。その過程では、飢餓や粛清、大規模な強制労働等、多大な犠牲を払い道路や鉄道といったインフラ整備が行われた。ロシア帝国時代遅遅として進まなかった辺境部のインフラ整備が進んだことは一定評価されているが、そのためにソ連が支払った代償は決して小さくない。

 国内で既に大きな犠牲を払っていたソ連であったが、第二次大戦においては、その傍ら日本およびドイツとも戦線を交えている。日ソ中立条約を破ってソ連が日本の関東軍支配下中国東北部および満州へ侵攻したことは多くの方がご存じだろう。だが、日本とソ連が戦端を交えたのはこれが最初というわけではない。満州事変によって日ソは大陸側で国境を接することになったわけだが、この国境に関して双方ともに係争があり、幾度か戦端を交えている。そのうちの一つが1938年の張鼓峰事件(ソ連側ではハサン湖事件)である。この事件では現在の北朝鮮とロシアと中国の3か国の国境に位置するハサン湖近くの丘陵地帯をめぐって日ソ両軍が衝突した。この地帯がなぜ重要だったかと言えば、単に国境地帯の係争地であったというだけではなく、この国境沿いに南満州鉄道が走っており、ハサン湖ほとりの丘陵地帯を押さえることで南満州鉄道を見渡すことができるようになるからであった。当時の鉄道といえば、軍事物資の大量輸送には欠かせない輸送手段であり、ソ連からすれば、この地帯を押さえることで日本ににらみを利かせることができると考えたのであろう。結果的に張鼓峰事件は双方の激しい攻防ののち、丘陵地帯の日本側の少し南を流れる豆満江を国境とすることで停戦合意がなされ国境が確定した。

 ソ連は国境付近の南満州鉄道を見渡せる丘陵地帯を手に入れたことで、それまで以上にここを重要戦略地点と意識するに至ったのであろう。事件後、ソ連シベリア鉄道バラノフスキーからハサン湖の北30kmに位置するクラスキノへと至る鉄道、バラノフスキー・ハサン鉄道の建設を開始し、1941年に全通させている。戦後さらにクラスキノからハサンへと延伸が行われ、現在では豆満江を渡る鉄道橋により北朝鮮へと鉄路は続いている。極東の辺境、シベリアの最果てたるこのような場所に鉄路を引くことは少なからず困難があったことであろう。マルクス・レーニン主義だからこそなせた技といったところだろうか。国内外で大きな犠牲を払いつつも短期間で全通させている共産党の強権さには恐れ入るばかりである。

 このバラノフスキー・ハサン鉄道、非電化全線単線で見渡す限りの原野を走る日本でいうところのローカル線なのだが、侮るなかれ。この路線、現在ではクラスキノ近くの港、ポシエトから石炭を積み出すためにシベリア鉄道方面から毎日のように長大編成の石炭輸送列車が多数運転されているのだ。一部は北朝鮮へと輸送されているようだとも聞くが真偽やいかに。そしてまたこの路線の主な輸送物品が石炭であるところに、社会主義時代の重工業偏重計画経済の残滓を垣間見ることができる。

 この石炭輸送列車を撮影すべく、2019年10月、友人たちと遥々ロシアは沿海州ウラジオストクへと向かった。仕事を終えた後すぐに成田へと向かい、成田からはエチオピア航空のソウル・インチョン経由アディスアベバ行に搭乗し韓国はソウルへ日付をまたいだころ到着した。先に各々到着していた友人たちと合流し、空港で仮眠。翌朝早朝、出発客で長蛇の列となった受付カウンターと保安検査を通り、ちょうど搭乗が始まったばかりの韓国系LCCチェジュ航空のウラジオストク便へと滑り込んだ。

 ソウルから約2時間半程度のフライトでウラジオストクへと降り立った。初のロシア、電子ビザが解禁されこれまでのように大使館へ出向いて申請をせずともよくなったとは言え入国審査はやはり共産国のそれであった。空港についてからは現地のプリペイド携帯回線SIMを購入したのち、カタコトの英語を話すレンタカー屋の係員に案内されて今回の旅の相棒たる車とご対面となった。天気がいまいちであったので、スーパーで買い出しをしたのち、友人の運転でひたすらと極東ロシアの荒野を走り、時折ロケハンをしつつこの日は投宿となった。

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 翌朝は、10月というのにもう凍えそうな寒さであった。早朝に宿を発ち、未舗装の道に揺られながら車を走らせること40分といったところであったろうか。リャザノフカ(Рязановка)付近のお目当ての撮影地付近へと到着した。ここからはひたすら山登り。20分ほどかけて小高い丘へと昇ると右手に日本海、左手にはシベリアの原野とかつての満州の山々という絶景であった。ここからは持久戦である。なにせ列車の時刻が分かっているわけではないので、ひたすら待つしかないのである。

 しばらくして、シベリア鉄道方面へ向かう北行の貨物がずらずらと空の石炭貨車をひきつれ重苦しいディーゼル音を放ちながらやってきた。これにて狙いの南行貨物の構図を確認。あとはひたすら南行の列車を待つばかりであった。だがしかしこれが待てど暮らせど来ない。北行貨物の40分後に機関車だけの回送が通過したが、それっきり。幸い携帯が圏外でないことが幸いであったが、ここは異国の地。いくらネットで情報を調べても何か出てくるわけもなかった。待つのも飽きた友人が山頂で二度寝を始める始末であった。

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 待ちも限界になりつつあった持久戦3時間目。ついにお目当ては現れた。はるか彼方からけたたましい排気音とジョイント音を山々にこだまさせながら石炭を満載にした貨物が紅葉の山々を縫ってやってきた。この区間はこういった重量級の貨物には少々厳しいのか前後に機関車を連結して運転するプルプッシュ方式。2車体連結で6000馬力の2TE10MK型機関車を前後につけているのだから、いかにこの列車が重いのかおわかりいただけただろうか。

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  自分たちのいる山の麓をかすめた列車はまた右へ左へと揺られながら山あいへと吸い込まれていく。荒野を彩る紅葉の木々の間を無機質な貨物列車が蹂躙していくような、そんな光景だ。轟音を轟かせるかつての社会主義の置き土産を夢中でフレームに収めた。

Report No.158 ロケット

 日本が世界に誇る新幹線。団子鼻で親しまれた0系もさることながら、その次に有名と言っても過言ではないのがJR西日本500系新幹線だろう。新幹線営業車両として初めて時速300kmでの営業運転を行い、東京~博多間を4時間49分で結んだその速達性は、後継車両たるN700が2007年に営業運転を開始して以降も2015年まで破られることはなかった。ロケットのような長くとがった流麗な先頭部は、今でも鉄道ファンのみならず多くの人々を魅了してやまない。これは新幹線の絵文字に0系🚅と並んで500系🚄をモチーフにしたものが採用されていることからも明らかだろう。

 東海道・山陽新幹線のエースとして16両編成で駆け巡った日々も今や過去。今では8両編成に短縮され、山陽新幹線区間でこだま運用をこなしている。このうちの一往復、こだま840号で上りこだま851号で下る運用は、500系で運転されるこだまの中でも少々特別だ。この運用は下りの新大阪発が11時32分と関西圏から利用するにはちょうどいい時間帯のためか、近年では特別コラボでラッピングを施した500系が運用されている。2015年から2018年は、テレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」20周年記念、山陽新幹線40周年記念ということで、500系にアニメに登場するエヴァンゲリオン初号機のカラーリングを施して500 TYPE EVAとして運行された。エヴァンゲリオンとのコラボが終了した現在はハローキティーとのコラボとなり、桜色を基調としたカラーリングを施された500系が運用されている。

 エヴァンゲリオンコラボが運転されていた2017年年末のことである。下関へサロンカーなにわを使用したサロンカーあさかぜの運転があった折に、ちょうどサロンカーあさかぜ撮影後にこだま581号があることを知って、ならばついでにと防府東IC近くの撮影地で狙ってみた。

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 さすがは本州も西端、12月2日と、もう冬もそこまで来ている中まだ紅葉が赤々と背景の山々を彩っていた。朝から澄み渡るような冬晴れの中、こだま581号でエヴァカラーの500系が防人の地へ向けて足早にやってきた。かつてのように16両で駆け抜ける雄姿はもう拝めないが、いつか来る引退の日まで様々な装いで人々を楽しませてほしいものだ。

Report No.157 Legend

 欧州では国同士で電化方式や信号設備の違いがあることなどから、国際列車にはまだ数多くの客車列車が走っている。だが、それも最近は規格化された各国対応の電車・気動車が開発されつつあり、徐々に客車列車は数を減らしている。さらに言えば、各国内のローカル列車を見ても、運用効率が良い量産型電車・気動車の数が増えてきており、やはり、将来的には欧州の列車たちも本邦のように電車・気動車が主流になっていくのであろう。

 定期列車としての客車列車は近い将来終焉してしまうかもしれないが、動態保存車・観光列車としてはまだしばらく安泰であろう。保存車という枠からは少し外れるかもしれないが、かつての客車を整備改修し観光列車として有効活用しているのがホテルチェーン・ベルモンドによって企画・運行されているVenice Simplon-Orient-Express(VSOE)だ。使用されている客車は最古のもので1926年のものもあり、あと数年もすれば1世紀にわたりヨーロッパを駆け巡っていることになる。近年では新型台車への振り替えが行われたり、客室のリニューアルが行われたりと、原形でこそないが往年の風情を十分に現代に伝えてくれている。国際寝台車会社の客車自体はVSOEに限らずヨーロッパ各地で静態、動態ともに保存車として存在するが、最長17両という長編成で運転されるのはこのVSOEだけである。また、各国の保存車と違い一国内での運行にとどまらず国をまたぎ国際列車として運転されるのもこの列車の魅力の一つであろう。今でこそヨーロッパの多くの国がシェンゲン協定により相互に入出国管理なく行き来でき幾多の国際長距離列車が運転されているが、かつては必ずしもそうではなかった。そうした国際長距離列車が一般的でなかった時代からの列車であるからこそ、この列車が国際列車として運転されることに価値があるのだ。

 2019年夏の欧州遠征では、同行した友人がVSOEをいまだ撮影したことがないということで、ここはやはりスイスはゴッタルド線で撮影しなければと、もはや通いなれたWassenの地へと赴いた。夏の終わりの9月といえど、やはり高地であるスイスの朝は冷える。10度台という肌寒さの中、Wassenの郵便局近くに車を停め20分ほどかけてループ最上段へと山道を登った。

 まだ山影が線路から抜けきらないころからセッティングをはじめ、時たま来る普通電車で構図を確認をしつつ、高原の朝を楽しんだ。VSOE通過の少し前に、Re620とRe420の重連によるバラスト工臨も通過。行きがけの駄賃としては贅沢すぎるほどだった。

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 日の光がWassenの谷底へとあたりはじめ少しばかりぽかぽかとした陽気になってきたころ、お目当ての主役は赤い機関車に引き連れられて山を登ってきた。数年前のダイヤ改正でVSOEが数分でも遅延すると普通電車に裏被りされるようになったのだが、この日のVSOEは定刻でやってきてくれた。残り短い夏の日の下、伝説の列車の静かなフランジ音が山間にこだました。

Report No.156 リゾート急行

 終端駅または途中駅で他線区への接続がない路線のことをしばしば盲腸線と呼ぶことがあるが、こういった路線の多くは地域輸送を主とするローカル線であり、優等列車や長距離列車が運転されているのは稀である。盲腸線でありながらそういった列車が運転されている路線というのは、少なからずその地域にしかないものがある場所である。例えば本邦で言えば吾妻線で運転されている特急「草津」あたりが該当するだろうか。草津はその名の通り、草津温泉の観光需要のために存在しているわけで、もし仮に草津温泉がなければおそらく運転されていなかっただろう。

 さて、同じような盲腸線優等列車が運転されている路線がドイツにも存在する。ドイツ南部、オーストリアとの国境の街へと至るオーベルストドルフ支線である。オーベルストドルフ支線はアルゴイ線インメンシュタッド(Immenstadt)から分岐し、スキーリゾート、温泉地として有名なオーベルストドルフ(Oberstdorf)へと至る全長20.7kmの路線である。冬はスキー、夏は避暑地として有名なオーベルストドルフへは毎日2往復のインターシティー列車が運転されており、1往復は遥々ドイツ北部ハンブルクとを結ぶNebelhorn号、もう1往復は中北部のドルトムントとを結ぶAllgäu号である。後者Allgäu号は比較的長編成であることと大幹線の真っただ中のシュトゥットガルト中央駅以南を経由するためかシュトゥットガルト以南では218形機関車重連によって牽引される。

 ドルトムントからやってくるAllgäu号IC2013列車はオーベルストドルフ18時13分着。サマータイムが実施される期間であればオーベルストドルフ周辺で絶好の光線で撮影することができる。01形202号機の団体臨時を撮影した日(Report No.155 Baureihe 01 - ぽっぽ屋備忘録)の午後は朝の雲が嘘のように晴れ渡っており、これはIC2013列車撮影にうってつけのチャンスと踏んでアウトバーンを一路オーストリア方面へひた走った。

 やってきたのはオーベルストドルフ駅の少し手前、アルトシュテッデン(Altstädten)駅とフィーシェン(Fischen)駅の間のポイント。ここは背景にグリューンテン山(Grünten)を望むポイント。農道の片隅に車を止め同行の友人らと各々セッティングをしていると、お天気であれば考えることはどこの鉄道ファンも同じなのかドイツの地元人とおぼしきファンもやってきた。

DB Br218 IC2013 Altstädten

 あたりがちょうどよい秋口の斜光線で茜色に染まりだしたころ、ドルトムントからのIC2013列車がエンジン音をとどろかせてやってきた。218重連に引き連れられて食堂車込み9両の豪華編成はオーベルストドルフまでの残り少ない旅路を足早に駆け抜けていった。

 

Report No.155 Baureihe 01

 ドイツの蒸気機関車を語るうえで外せないのが01形だろう。赤く塗られた直径2000mmという大型の動輪と威圧感のある大型のボイラー、英国の蒸気機関車のような芸術品のような美しさと対照的な工業製品としての工芸品のような美しさがこの機関車が長きにわたり人々を惹きつけてやまない理由のなかもしれない。

 200両以上が製造された01形は、現在も数両の01形がドイツおよび周辺国で動態保存されており、原形・改造機等々形態こそ様々であるが時折その雄姿を見ることができる。そういった動態保存機の中のひとつが01形202号機だ。01形でも最終増備群の5次車の1両であり、5次車唯一の動態保存機である。202号機は現在スイスの保存団体、Verein Pacific 01 202によって維持されており、もっぱらスイス国内での運転が主になっている。今でこそ動態保存機として活躍しているものの、現役時代末期は予備機同然となっていたり、引退後一時は駅の暖房ボイラーとして活用されたりと決して順風満帆というわけでもなかった。1975年に保存団体に引き取られてからも、20年以上かけて団員や協力者たちがほぼ無給で修繕作業にあたり動態復活を遂げ今に至っており、現在も年間2000時間にもなる保守が行われるなど多大なる苦労によって維持されている。2013年にはドイツ・マイニンゲンにて大規模修繕が行われ、この際にドイツへ入線可能なよう保安装置の追加設置が行われた。これにより生まれ故郷であるドイツへ運転される機会も出てきた。

 さてさて、そんなことはつゆ知らず、2019年9月のメルクリンターゲに合わせて渡欧する計画を組んでいると、奇遇にもメルクリンターゲ開催に合わせて、202号機牽引の臨時列車がゲッピンゲンでの展示を兼ねて運転されることがわかった。これまで01形は走行を撮影したことがなかったので、これはこの機会に是が非でも撮影しなければならないと遠征計画の中に織り込んだ。往路は全区間電化であったので断念したのだが、メルクリンターゲの行われるゲッピンゲン駅からスイスへの復路1日目がちょうど103形の前走りに設定されていたため、”すこし豪華な練習用被写体”となった。

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 ゲッピンゲン駅には転車台がないため、ゲッピンゲンからシュトゥットガルトへ向けて走る復路1発目は逆機運転となっていた。最新鋭ICE4が時折駆け抜ける本線を01形が逆機で黒煙高々と驀進してくる。紺色の客車がどことなくかつての日本国鉄の旧客を彷彿とさせてくれた。この日、列車は一旦シュトゥットガルトで入庫となり、乗客はホテルで一泊したのち、翌朝からまたスイスへ向けて出発という行程であった。ヨーロッパの動態保存運転にはしばしばこのように複数日にわたって地域を少しずつ楽しみながら本拠地に帰るというような日程のものが多いように思う。もちろん走行距離自体が長いこともあるが、観光促進という面で少なからずこのような動態保存機が役立てられている印象だ。

  復路2日目、202号機牽引の列車はシュトゥットガルトからウルム(Ulm)へ至り、ウルムからはウルム-フリードリヒスハーフェン線(Bahnstrecke Ulm-Friedrichshafen)を経由して南下する経路となっていた。早朝アルゴイ方面で218形牽引のEuroCityを撮影後、アウトバーンを飛ばしウルム-フリードリヒスハーフェン線のモッヒェンヴァンゲン(Mochenwangen)近くの撮影地に来たのだが、到着時どうにもアルゴイと比べて天気が悪く少しばかり負け戦を覚悟した。だがどうだろう、時間変更がかかったのか待てど暮らせど列車が来ない。そうこうしているうちにそれまでの悪天候はどこへやら、さんさんと太陽が照り付けだした。

Br01.202 Mochenwangen

 想定していた時間より1時間ほど遅れてからだったろうか。野太いドラフト音とハスキーな汽笛を奏でながら202号機が快走してきた。欧州蒸気機関車はボイラー性能がいいこともあり、なかなかいい煙を出してくれないのだが、今回は程よく”現役当時”のような黒煙をたなびかせてやってきた。複線であるし右側通行なので、日本とはなにもかも違うのだが、どこかしら昔の鉄道雑誌で見たC62ニセコ号のようだった。