ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.159 共産主義の大地

  1917年11月7日、世界は初めて社会主義国家の成立を見た。のちにソビエト連邦となるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の誕生であった。第二次大戦下のソビエト連邦では、マルクス・レーニン主義大義名分の名のもとに、集団農業化や重工業を主とした計画経済が強硬に推し進められた。その過程では、飢餓や粛清、大規模な強制労働等、多大な犠牲を払い道路や鉄道といったインフラ整備が行われた。ロシア帝国時代遅遅として進まなかった辺境部のインフラ整備が進んだことは一定評価されているが、そのためにソ連が支払った代償は決して小さくない。

 国内で既に大きな犠牲を払っていたソ連であったが、第二次大戦においては、その傍ら日本およびドイツとも戦線を交えている。日ソ中立条約を破ってソ連が日本の関東軍支配下中国東北部および満州へ侵攻したことは多くの方がご存じだろう。だが、日本とソ連が戦端を交えたのはこれが最初というわけではない。満州事変によって日ソは大陸側で国境を接することになったわけだが、この国境に関して双方ともに係争があり、幾度か戦端を交えている。そのうちの一つが1938年の張鼓峰事件(ソ連側ではハサン湖事件)である。この事件では現在の北朝鮮とロシアと中国の3か国の国境に位置するハサン湖近くの丘陵地帯をめぐって日ソ両軍が衝突した。この地帯がなぜ重要だったかと言えば、単に国境地帯の係争地であったというだけではなく、この国境沿いに南満州鉄道が走っており、ハサン湖ほとりの丘陵地帯を押さえることで南満州鉄道を見渡すことができるようになるからであった。当時の鉄道といえば、軍事物資の大量輸送には欠かせない輸送手段であり、ソ連からすれば、この地帯を押さえることで日本ににらみを利かせることができると考えたのであろう。結果的に張鼓峰事件は双方の激しい攻防ののち、丘陵地帯の日本側の少し南を流れる豆満江を国境とすることで停戦合意がなされ国境が確定した。

 ソ連は国境付近の南満州鉄道を見渡せる丘陵地帯を手に入れたことで、それまで以上にここを重要戦略地点と意識するに至ったのであろう。事件後、ソ連シベリア鉄道バラノフスキーからハサン湖の北30kmに位置するクラスキノへと至る鉄道、バラノフスキー・ハサン鉄道の建設を開始し、1941年に全通させている。戦後さらにクラスキノからハサンへと延伸が行われ、現在では豆満江を渡る鉄道橋により北朝鮮へと鉄路は続いている。極東の辺境、シベリアの最果てたるこのような場所に鉄路を引くことは少なからず困難があったことであろう。マルクス・レーニン主義だからこそなせた技といったところだろうか。国内外で大きな犠牲を払いつつも短期間で全通させている共産党の強権さには恐れ入るばかりである。

 このバラノフスキー・ハサン鉄道、非電化全線単線で見渡す限りの原野を走る日本でいうところのローカル線なのだが、侮るなかれ。この路線、現在ではクラスキノ近くの港、ポシエトから石炭を積み出すためにシベリア鉄道方面から毎日のように長大編成の石炭輸送列車が多数運転されているのだ。一部は北朝鮮へと輸送されているようだとも聞くが真偽やいかに。そしてまたこの路線の主な輸送物品が石炭であるところに、社会主義時代の重工業偏重計画経済の残滓を垣間見ることができる。

 この石炭輸送列車を撮影すべく、2019年10月、友人たちと遥々ロシアは沿海州ウラジオストクへと向かった。仕事を終えた後すぐに成田へと向かい、成田からはエチオピア航空のソウル・インチョン経由アディスアベバ行に搭乗し韓国はソウルへ日付をまたいだころ到着した。先に各々到着していた友人たちと合流し、空港で仮眠。翌朝早朝、出発客で長蛇の列となった受付カウンターと保安検査を通り、ちょうど搭乗が始まったばかりの韓国系LCCチェジュ航空のウラジオストク便へと滑り込んだ。

 ソウルから約2時間半程度のフライトでウラジオストクへと降り立った。初のロシア、電子ビザが解禁されこれまでのように大使館へ出向いて申請をせずともよくなったとは言え入国審査はやはり共産国のそれであった。空港についてからは現地のプリペイド携帯回線SIMを購入したのち、カタコトの英語を話すレンタカー屋の係員に案内されて今回の旅の相棒たる車とご対面となった。天気がいまいちであったので、スーパーで買い出しをしたのち、友人の運転でひたすらと極東ロシアの荒野を走り、時折ロケハンをしつつこの日は投宿となった。

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 翌朝は、10月というのにもう凍えそうな寒さであった。早朝に宿を発ち、未舗装の道に揺られながら車を走らせること40分といったところであったろうか。リャザノフカ(Рязановка)付近のお目当ての撮影地付近へと到着した。ここからはひたすら山登り。20分ほどかけて小高い丘へと昇ると右手に日本海、左手にはシベリアの原野とかつての満州の山々という絶景であった。ここからは持久戦である。なにせ列車の時刻が分かっているわけではないので、ひたすら待つしかないのである。

 しばらくして、シベリア鉄道方面へ向かう北行の貨物がずらずらと空の石炭貨車をひきつれ重苦しいディーゼル音を放ちながらやってきた。これにて狙いの南行貨物の構図を確認。あとはひたすら南行の列車を待つばかりであった。だがしかしこれが待てど暮らせど来ない。北行貨物の40分後に機関車だけの回送が通過したが、それっきり。幸い携帯が圏外でないことが幸いであったが、ここは異国の地。いくらネットで情報を調べても何か出てくるわけもなかった。待つのも飽きた友人が山頂で二度寝を始める始末であった。

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 待ちも限界になりつつあった持久戦3時間目。ついにお目当ては現れた。はるか彼方からけたたましい排気音とジョイント音を山々にこだまさせながら石炭を満載にした貨物が紅葉の山々を縫ってやってきた。この区間はこういった重量級の貨物には少々厳しいのか前後に機関車を連結して運転するプルプッシュ方式。2車体連結で6000馬力の2TE10MK型機関車を前後につけているのだから、いかにこの列車が重いのかおわかりいただけただろうか。

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  自分たちのいる山の麓をかすめた列車はまた右へ左へと揺られながら山あいへと吸い込まれていく。荒野を彩る紅葉の木々の間を無機質な貨物列車が蹂躙していくような、そんな光景だ。轟音を轟かせるかつての社会主義の置き土産を夢中でフレームに収めた。