Report No.166 秘境列車
登山鉄道というと、箱根登山鉄道やはたまたスイスのユングフラウ鉄道を思い浮かべる方も多いだろう。実は、登山鉄道という名前に明確な定義は存在していないのだが、おおむね、特殊な装備や構造をもって通常の鉄道車両では克服困難な路線を運行している路線を登山鉄道と呼んでいる、または名乗っている場合が多い。
静岡県の大井川鐵道井川線もそうした登山鉄道の一員として全国登山鉄道‰会に名を連ねている。‰(パーミル)とは千分率、つまり1/100を表す百分率(パーセント)に対して分母側を1000とした1/1000の比率で表す単位である。通常、鉄道においては勾配を表す際に1kmで何メートル上ったか、という比率で表すため、このパーミルを用いる。
井川線の場合、千頭~アプトいちしろ駅間および長島ダム~井川駅間の平均勾配はそれぞれ約10‰と14‰、つまりそれぞれ1kmで10m、14m上がる普通鉄道と変わらない程度の勾配である。(一般に国交省における省令の中で普通鉄道では機関車列車の場合25‰、電車等の場合35‰を最急こう配としている。)だが、アプトいちしろ~長島ダム間はというと、1.5kmで89mを登るという平均勾配59‰の難所となっている。そしてこの区間の最大勾配は90‰となっており、角度にして5度の上り坂である。この急こう配のため、通常の鉄輪式粘着鉄道ではこの区間を走行できない。そこで、この区間では走行用レールのほかに歯車がかみ合うためのラックレールを設置するラック式鉄道となっている。鉄輪による粘着走行を行わず、車軸に設置された歯車とラックレールがかみ合うことでこの勾配を克服しているのである。
この区間は元からこのような急こう配だったわけではなく、ダム建設によって旧来の経路が水没することになったため付け替えにより誕生した。そのため、当該区間1.5kmの短い区間のほとんどが大井川に沿って山肌にはりつくような形で走っている。
コロナ禍がしばしの小康状態となった2020年夏、全国旅行支援が実施されたおりを見て、井川線を訪問した。アプトいちしろ~長島ダム間はその駅間の距離故に撮影地が多く存在するわけではないのだが、その特徴を存分に味わうことのできる撮影ポイントがいくつか存在する。この訪問で向かった先はアプトいちしろ駅北の大井川を渡る橋梁を見渡すことのできるポイントだった。
長い汽笛を谷間に響かせながら、重苦しいモーター音とともに井川行列車は大井川をゆっくりと渡る。井川線では必ず機関車は麓の千頭側に連結されるのが特徴だ。橋を渡るとすぐにロックシェッドをくぐる。
ロックシェッドをくぐった列車は断崖絶壁から伸びる渡らずの橋を渡る。この区間では走行速度が15km/hに制限されているため、ガーター橋からの音は想像以上に静かだ。ギリギリと金属のこすれ合う音とモーターの重低音のみが谷間にこだまする。架線柱と橋の成す角度をみればここがいかに急こう配かお分かりいただけるだろうか。
井川行の列車が行ってしばらくすると、今度は千頭行の列車が山を下ってきた。途中駅終着の列車を併結しているため、客車の間に機関車がもう1両挟み込まれた11両中4両が機関車と言う豪華編成だ。短笛と長笛を繰り返しながらジリジリと列車は絶壁を進んでいく。これは山がちな日本ならではの光景ともいえるかもしれない。
初撮影の井川線であったが、なかなかお目にかかることにできない登山鉄道をお手軽に楽しめ、大変満足のいく撮影であった。山肌を這うように走るが故、災害に対し脆弱なためしばしば運休することのある井川線であるが、願わくば末永く残ってほしい鉄道風景である。