ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.70 It's a small world

 新幹線や一部私鉄の1435mm、京王線・都営新宿線の1372mmを除けば日本の鉄道の大部分は軌間1067mm、いわゆる狭軌と呼ばれる軌間で敷設されている。しかし、このほかにさらに狭い軌間で敷設されている鉄道も存在する。狭軌よりも狭い軌間特殊狭軌と呼ばれる762mm軌間や610mm軌間を採用するいわゆる「軽便鉄道」の類だ。軽便鉄道は、その軌間故、車両を小さくつくらねばならないので輸送力は必然的に1067mmや1435mmには劣ることになる。しかし、反面、建設費が安く済むため一時は日本国内でも多くの軽便鉄道が建設された。そのうち、のちに国鉄へ転換されたものを除けば、そのほとんどが廃線となった。今や国内で営業鉄道として残る軽便鉄道四日市あすなろう鉄道三岐鉄道北勢線黒部峡谷鉄道の3つのみである。

 そのうち一つ、三岐鉄道北勢線は、西桑名駅から阿下喜駅を結ぶ1914年に建設された歴史ある20.4kmの軽便鉄道線である。歴史あるこの路線の中でも特に有名なのが「めがね橋」と「ねじり橋」である。このうち「めがね橋」は全国に数あるめがね橋の中でも珍しいコンクリートブロック製であり、北勢線でも特に有名な撮影地である。あるとき、四日市DD51の撮影に行った帰りにせっかくの晴天を無駄にするものもったいないと帰り道に友人と立ち寄ってみた。すると橋の前には少し終わりかけであったがコスモス畑が広がっており、あと20分ほどで列車が来るようであったので少し待ってみることにした。

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 しばらくして踏切が鳴り、やってきたのは黄色い3両編成の小さい電車だった。小さな長さの違う3両の電車。釣り合わない大きいパンタグラフ。もし、軽便鉄道が全国にもっと残っていればこんな風景を他にも見れたのだろうか。

 比較的近くには四日市あすなろう鉄道もある。近く訪れてみるのもいいかもしれない。

Report No.69 煤煙の記憶

 福知山線の宝塚~福知山間、山陰本線の福知山~城崎温泉間が電化され今年で30年になる。両区間とも現在では電車特急が闊歩する路線となっているが、電化前までは気動車優等列車や客車列車の楽園であった。キハ58やキハ181といった気動車が往来する中、客車列車を牽引していたのは主にDD51であった。「出雲」、「だいせん」といった山陰本線の顔を牽いていたのはもちろんDD51であり、まさに主役であった。

 電化後、昼夜運転されていた「だいせん」は昼行列車が183系を使用した電車特急「北近畿」へ統合され廃止となり、夜行のみの運転となったのち運転区間の縮小、さらには気動車化され客車列車としての歴史に幕を下ろした。また、最後までDD51牽引の客車列車として残っていた寝台特急「出雲」も2006年3月18日ダイヤ改正をもって廃止となり両線区の客車列車は完全に過去帳入りしたのだった。

 さて、この2016年、30周年を記念して電化記念列車が運転される運びとなった。はじめ聞いたときは「どうせ、381系か117系あたりを使った列車が走るのだろう」と高を括っていたのだが、よくよく聞くとDD51牽引でサロンカーなにわが走るという。ここ最近、福知山線山陰本線で客車列車の運転が少なく、なかなか記録できずにいたところへこの運転の知らせとあって、運転日、2016年7月18日の1週間前から意気揚々とレンタカーを予約したのだった。

 いざ前日になってみると天気予報はどうもご機嫌斜め。完全に丸つぶれ、というわけではなかったが、晴れるかどうかは少々疑問符が残る空模様だった。それでも気の合う友人たちとの久々の鉄とあってレンタカーを駆って福知山方面へと足を延ばした。谷川駅付近や丹波竹田付近のストレートで往路を狙ったのだが、どちらも厚い雲に阻まれあえなく撃沈。少々士気の下がる中、復路を狙うため、山陰本線の国府~江原の撮影地へ。

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 着いてみるとすでに雑木林のように三脚が林立する場所取り合戦。圧倒される中なんとか場所を確保して通過を待った。雲が太陽の前を往ったり来たりとヒヤヒヤしながら、神頼み。通過時刻が近づくにつれてだんだんとあたりは晴れ間がのぞくようになった。「ピイッ!」っと軽い汽笛一声聞こえたかと思うと踏切が鳴ってDD51-1191が煤煙濛々とサロンカーなにわ6両を引き連れてやってきた。ここまでの黒煙が上がるのをみたのはいつぶりだろう。初夏の日差しの中、煤煙の記憶に思いをはせた。

Report No.68 珍道中

 何事も練習あるのみ、とはよく言ったものだが鉄道もまた例外ではない。電車、気動車電気機関車ディーゼル機関車、新幹線、さまざまな車両で乗務員の訓練が日夜行われている。JR旅客各社の場合、電車や気動車であれば営業列車を用いての訓練を行うことができるのだが、機関車となるとそう簡単にはいかない。なぜなら、今や機関車牽引の定期列車は皆無であり、不定期に工事用の列車や臨時列車の牽引などのために走るのみだからだ。このため、例えばJR西日本であれば網干訓練(Report No.10 網干訓練 - ぽっぽ屋備忘録)、JR東日本であれば信越訓練(Report No.50 Give me chocolate! - ぽっぽ屋備忘録)などのように営業列車とは別に様々な訓練列車を仕立てて乗務員の養成・訓練を行っている。

 JR四国もまた不定期にDE10を用いた乗務員訓練列車が運転されている。JR四国の場合、客車は既にないため、レール輸送車であるチキ6000などを用いて乗務員訓練を行っている。ところが11月、ネットで乗務員訓練の写真を見て驚愕した。なんと、チキではなくキハ185系が用いられているではないか。更には中間車にはアイランドエクスプレス車が組み込まれているではないか。知人から「晴れそうな日があれば行ってみないか」と誘われたこともあって、顔なじみ3人と幾年か振りに四国へ渡ることにした。

 道中知人たちを拾いつつ朝、四国は多度津へついてみると晴れ予報は一転曇りの様相。2往復運転される乗務員訓練のうち1本目はいく撮影地全てで曇りとなってしまい些か残念な結果に。このまま2往復目も曇ってしまうのではないかと思われた。2往復目の往路を撮る場所として選んだのは土讃線 黒川~讃岐財田のカーブ。最初は雲が多く晴れるかどうかやきもきしたが通過時刻が近くなるにつれて青空の面積が増えてきた。

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 南風や2000系出場回送が通過した後、ゆっくりとカーブをキハ185系を引き連れてDE10-1139がやってきた。少々色あせて錆びもうき、色あせたディーゼル機関車、こういうと聞こえは悪いがこれぞ現役の罐といったところか。赤、青、銀、オレンジ、色とりどりの風が真横を通り過ぎて行った。

Report No.67 面影

 2000年以降、青い機関車と青い客車、「ブルートレイン」と呼ばれ親しまれた寝台列車たちの時代は高速道路網の発達や新幹線網の延伸、航空券の低価格化などによって続々と終焉を迎えた。京都~長崎を結んだ寝台特急「あかつき」もその一つであった。「あかつき」は、1990年から「レガートシート車」と呼ばれる14系座席車を連結するなど旅客の誘致に努力していたが、旅客減少と車両老朽化には逆らえず、2008年3月14日ダイヤ改正をもって、当時併結列車であった「なは」と共に廃止となった。

 廃止から8年以上がたった今年、長崎デスティネーションキャンペーンが開催されることに合わせて大阪から長崎まで14系大サロこと「サロンカーなにわ」による臨時列車が日本旅行主催で運行されることになった。その名も「サロンカーあかつき」。日本旅行の公式プレスによれば「あかつきをイメージしたヘッドマークを掲出します。」とのことであったので、いつもサロンカーなにわを使用する際の臨時列車のようなサロンカーなにわのヘッドマークをアレンジしたオリジナルヘッドマークが掲げられるものと思っていた。 すると数日前になって風の噂で流れてきたのは往路純正、復路オリジナルヘッドマークという話だった。これは行くしかないと決め撮影地を選定にかかったのだが、いかんせんこの列車、11月25日16時02分に大阪駅を出るというダイヤ設定であったため日の出ている間に順光で撮影できる区間が大阪~須磨の間のみとなっていた。そのうえ純正HMが掲出されるとは言え後ろにつくのはサロンカーなにわ。どこか違和感を覚えてしまう組み合わせであったのでここは編成撮りより面縦でヘッドマークを目立たせるほうがよいのではないかという話を友人とし、友人が苦心の末見つけてきた場所で撮影することにした。

 11月25日、当日朝は少し雲があったものの夕方が近づくにつれ天候は回復、秋晴れの様相を呈していた。多くのギャラリーが詰め寄せる沿線を横目に友人と二人でセッティング。通過を待った。本番通過の露払いにやってきたのは新快速、このときちょうど太陽が雲に隠れてしまい、本番もこのままかと思われた。

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 新快速通過後、太陽は雲から抜け、5分しないうちにPFのヘッドライトが見えた。太陽高度5度という絶好の秋の斜光線の中、EF65-1132が往年の「あかつき」単独ヘッドマークを掲げて「サロンカーあかつき」として東海道を下ってきた。

Report No.66 おしろい

 秋田県は、県下地域の約90%が特別豪雪地帯に指定されるほどの豪雪地帯である。これは日本海対馬暖流からもたらされる湿った空気によってもたらされる雪であり、水分を多く含んだいわゆるベタ雪である。

 北海道の鉄道車両がよく前面に雪を目いっぱいつけて走っていることがあるが、北海道の友人に言わせればこれはベタ雪だからだそうだ。もちろん、降る量や車両の速度にもよるが、一般にベタ雪のほうが引っ付きやすく、粉雪と呼ばれるようなものはあまり引っ付かない。そう、実は車両の前面に雪を目いっぱいにつけて・・・・という事象はいろいろな条件が適切に組み合わされなければ成立しないのだ。

 2014年3月、折しも私が東日本、北海道地域を遠征しており北上する中、寒波が到来していた。秋田に近づくにつれて雪は深くなり、冷え込みも厳しさを増していった。当時、485系新潟車が特急”いなほ”から撤退することが決まっており、遠征中可能ならば記録せねばと思っていた。秋田駅に立ち寄った際に、ちょうど”いなほ1号”で到着する運用を撮れることが分かり時折雪舞い散る秋田駅でスナップした。

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 顔一面とはいかなかったが、日本海側特有のベタ雪を顔にひっつけて少し”おしろい”をぬった485系上沼垂色がホームで発車を待っていたのを記録した。数か月後、上沼垂色は全車引退し、常磐線から活躍の場を移してきたE653系へと役目を引き継いだ。

Report No.65 エンブレム

 日本初の特急用電車として開発された151系は欧州のTrans Europe Express(TEE)を意識した外観と塗装でそれまでの国鉄に新風を吹き込んだ。この、151系の先頭部には、それまでの列車になかった新たな”シンボル”が輝いていた。公募によって募集・決定された特急(Tokkyu)の「T」を図案化したといわれる金色と銀色に彩られた三角形の特急エンブレムだ。151系以降の特急電車には皆このエンブレムが取り付けられ、特急車を象徴付けるものとなった。しかし、エンブレムは後に改造により撤去されたり、塗装が簡略化されたりするものも発生した。

 JR西日本が所有していた381系のうち、福知山電車区で活躍していた車両たちは、従来金と銀で塗装されていたエンブレムが銀のみに塗装簡略化されていた車両がほとんどであった。その中で唯一、本来の金と銀で塗装されたエンブレムを装備していたのがFE41編成の京都方先頭車、クハ381-1103であった。

 福知山区381系の289系への置換が発表され引退が迫った2015年の秋、暇を見つけては山陰線沿線へ撮影へ出向いていた。しかし、このころにはすでに繁盛記以外は4両での減車運用が行われており、なかなか編成で撮るというと迫力のある画が撮れない環境であった。そこで、正面から縦構図で捕らえられれば両数を気にすることなく、迫力ある画が撮れると考えて、数少ない朝の381系の運用を狙って撮影に向かった。向かった先は山陰本線嵯峨嵐山保津峡間の竹林ちかくの踏切。

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超望遠構図で朝9時前の”きのさき6号”を待ちうけた。踏切が鳴り、竹林を颯爽と通り抜けてやってきたのは金と銀のエンブレムのFE41編成。朝の鋭い光線が端正な顔立ちとエンブレムの造形を浮かび上がらせた一瞬を切り取った。

Report No.64 血液の一息

「石油の一滴は、血の一滴値する。」

第一次世界大戦中の1917年、仏首相クレマンソーが米大統領ウィルソン宛に石油支援の要請をした際の電報の一文であり、第二次世界大戦中の日本でも戦時標語として用いられたほど有名なものである。この電報が打たれた第一次世界大戦から100年近くが経とうとしている現代でも、石油は重要なエネルギー資源であり続けている。ひとたび原油価格が変動すれば経済が影響を受け、さらには一般市民への日常生活へも影響を及ぼす。車や暖房、石油がなくてはならない現代、石油を消費地へ輸送することは、つまり身体の隅々に血液を行き渡らせることと等しく重要なことである。
 日本は産油国ではないため、海外から船で運んだ石油を沿岸部の製油所で精製し日本各地へ輸送しなければならない。だが、ご存知のように日本は、国土の約7割が山地であるような険しい地形である。特に、信州は木曽路日本アルプスの山間に位置する街々を結ぶ道は、数々の峠が点在する難所である。これを回避し物流量を増加させるために長大トンネルなどが整備されているが、石油など危険物を運ぶ車の通行は安全面の問題から通行が制限または規制されている。ここで、峠を迂回して輸送するとなると輸送量の減少は必至でありなおかつ経済的でない。このため、信州方面の石油は主に大量輸送に長ける鉄道貨物によって輸送されており、鉄道が信州への血管、大動脈となっているのだ。
 信州への大動脈の大元、心臓のひとつを担うのが日本屈指の港湾石油工業地帯のひとつ中京工業地帯に位置する四日市であり、ここから関西本線中央西線を経由し年中を通しほとんど休みなく石油が運ばれている

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 そんな血液の一滴が塩浜駅発の6286レである。6286レは塩浜駅を18時26分に発車後、四日市駅まで来るとここで21時14分まで一休みとなる。日の入りが早くなった秋、四日市駅を覗くと、夜の静寂の中、発車まで身体を休めるDD51重連牽引の6286レの姿があった