ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.63 秋風の便り

 日が短くなり、風も肌寒くなり、動植物が冬支度を始める秋。秋になるとユーラシア大陸からの乾いた空気が日本列島を覆うようになり、いわゆる”秋晴れ”が多くなる。とは言うものの今年は例年に比べ雨や曇りが多く、日照時間が少なかったため、あまり気持ちの良い晴れの日に恵まれなかった。更に、秋になれば気温が下がるため、夏に比べて陽炎も幾分おとなしくなる。陽炎がおとなしくなる秋から冬、この時こそ俯瞰などの遠景アングルがおいしくいただける時期だ。

 普段は俯瞰などの遠景撮影よりは超望遠などを用いて圧縮する構図のほうばかりに目を向けがちだが、せっかくの秋、俯瞰もまた一興。晩秋が近づくころから信州方面への石油輸送貨物の一翼を担う愛知機関区のDD51牽引石油列車は気温低下による需要増に伴い重連運転となる列車が出てくる。いつもならば重連を望遠で圧縮して・・・・と考えるところだが、俯瞰で側面から重連牽引を撮るのもまた面白そうだと考えた。以前より目をつけていた俯瞰ポイントで撮影することにした。ポイントは桑名方面から伊勢湾を見渡す形で俯瞰できるポイントで、ちょうど関西本線近鉄が並走する区間を見下ろす形になる。

 初めてこのポイントを訪れたときはあいにくの運休で無駄足を踏んでしまい、2回目に訪れた際には東海道本線内での列車遅延により列車通過前に日没を迎えてしまった。そして三度目の正直、友人を「もうこれしかチャンスがない!」と説得し、レンタカーの軽自動車を駆ってえっちらおっちらと山を登った。山頂につき、伊勢湾を見渡すと遠景に武豊火力発電所の煙突が見えるほどの空気の澄みようで、傾きだした太陽に照らされた伊勢平野が赤く染まりだしていた。ここで撮るのは信州への石油出荷列車、72レである。肌寒い秋風の中設営し通過をまった。

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 途中何度か線路が雲の影に覆われるなどヒヤヒヤだったが、通過10分ほど前から構図内には晴れ間が広がった。近鉄電車がひっきりなしに眼下を通り過ぎる中、16時15分ごろ、画面右からゆっくりとDD51重連に引き連れられて石油列車がやってきた。運よく名古屋からの近鉄アーバンライナーもフレームイン。ナガシマスパーランドをバックに、近鉄電車、長良川と中京圏らしい情景の中、夕刻の関西本線DD51が駆け抜けた。

 

秋の桑名界隈はまだまだ撮影していないポイントが多いため今後さらに重点的に撮影していきたい。

 

Report No.62 フィルムとデジタルのお話

 ほんの20年ほど前まで、写真といえばフィルムが主流であった。デジタルカメラは1975年にコダックが発明したが、1990年代まで高価でフィルムを使用する銀塩カメラに劣っていたこと、家庭用コンピューターの普及状況なども相まってあまり普及しなかった。しかし近年では、半導体技術の進歩によってデジタルカメラが比較的安価になったこともあり、カメラの主流はデジタルに取って変わられた。

 私は現状フィルムとデジタルを併用しているが、これはフィルムには1つデジタルではどうしても再現できないものがあるからだ。写真に撮って色は構図と同じかそれ以上に重要なものだ。フィルムとデジタルでは色の出方が全く違い、デジタルで頑張ってフィルムの色を再現しようとしてもどこかな発色が異なるのだ。

 仕組みの話をすれば、フィルムが光による化学反応によって色を出すところをデジタルは光を電気信号として取り込み、それを画像処理アルゴリズムにのっとって処理する。なお、RAW現像のようにアナログ-デジタル変換をしただけの生データとして記録を行うこともできるが、これをきちんとJPEGなどの写真データとするには画像処理エンジンを通してアルゴリズムに従った処理を行う必要がある。デジタルの場合、この画像処理エンジンが曲者なのだ。デジタルカメラはCCDもしくはCMOSセンサーという受光センサーに当たった光を記録しているわけだが、センサーは非常に小さい受光素子の集合からなっている。センサーの表面には素子が碁盤の目に並んでおり、この素子と素子の間には必ず微小な隙間があり、この世のすべての物質が原子からできていることから受光素子一つ一つの小ささには限界がある。画像処理エンジンでは、この隙間の補完処理と素子間のばらつきの補正を行っているわけで、デジタルカメラで得られる情報は少なからず画像処理エンジンのアルゴリズムによって生成された近似解、つまり”本当に近しい嘘”なのである。フィルムの解像度をデジタルの画素数へ理論的換算計算をすれば、現在のデジタルカメラの画素数はフィルムとほぼ互角かもしくはフィルム以上であるが、色となると、フィルムにほぼ一様に塗布された感光剤粒子の化学反応によるウソのない発色に256色のデータで写真を作るデジタルは勝てないだろう。しかし、フィルムにはその製品ごとに発色の偏りがあるのでその点ではウソの発色といえるかもしれない。

 近年では補正方法も技術革新が続いているがそれでも人が設計するモノな以上、化学反応であるフィルムに完全に一致させるということは不可能とは言わずともかなり非現実的である。

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この2枚の写真は、2016年8月31日に関西本線塩浜駅にて撮影したDD51-853牽引の5263レであり、上がデジタル、下がフィルム(Provia100F(増感1段))である。デジタルはRAWで撮影したものをなるべくフィルムに近い発色へ近づけたつもりであるがやはり発色が少しずつ異なる。色の深み、階調などなど、写真の”厚さ”を印象付けるものの違い、フィルムとデジタルの違いを少しわかっていただけただろうか。

 

※なおデジタルとフィルムでレンズ、露光条件が異なるため単純比較はできない。

Report No.61 Remember me

 かつて京阪三条から三条通を通り山を越えて山科まで京阪が走っていた、と言っても若い人なら信じることはできないだろう。京都市営地下鉄東西線が開通するほんの19年前まで、京阪京津線浜大津から三条京阪まで併用軌道と専用軌道で結ばれていた。このころ、京津線でひときわ異彩を放っていたのが80型電車であった。80型は1961年~1970年まで製造された車両で、吊り掛け駆動ながら、急勾配の山岳路線に対応するため抑速回生ブレーキや定速制御機能、大出力主電動機を装備するなどの意欲的な走行装置を搭載しており、車体も準張殻構造の卵型断面を採用し、前面は、前面から側面へ回り込むパノラミックウインドウを使用する3枚分割前面窓を採用する端正なヨーロッパ風デザインとされるなど、それまで大正末期や昭和初期の車両が闊歩していた京津線の中では一線を画す車両であった。塗装もそれまでの若草色を地に窓から下を青緑色とするツートン塗装ではなく、若草色を地するものの、少し明るめの青緑色を窓周りに配色した塗装であった。

 京阪本線は1983年に600Vから1500Vへ昇圧したが、1969年に三条京阪駅京阪本線との連絡線が撤去されており京阪本線へ直通運用することもなくなっていたので京津線は昇圧されることはなかった。しかし、京都市内から山科方面への京都市営地下鉄東西線が建設されることになり、京津線三条京阪~御陵間が競合することになった。そこで、協議の末、京津線を1500Vへ昇圧し当該区間を廃止、東西線へ京阪車両が乗り入れを行うこととなった。80型は600V電化車両であったことに加え、東西線開業時の1997年にはすでに車齢30年超えの老朽化車両であったので東西線開業に合わせ運用を離脱、廃車された。

 今年2016年は、80型誕生から55周年の節目であり、京阪ではこれに合わせて現在石山坂本線で活躍する700形に80型の塗装を施し2020年まで運行することになった。現在の石山坂本線でかつての京津線京都府下の併用軌道区間に近いのは浜大津駅周辺の併用軌道である。記録的日照不足といわれる中、久々の晴れの日であったので、浜大津へ復刻塗装編成を撮影に向かった。運用を特に確認したわけではなかったのだが、ついてみると1時間ほどでくるようで、多くのギャラリーがすでに陣を張っていた。

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 1時間ほどして快晴のもと復刻塗装編成、701-702編成がやってきた。どこかノスタルジックでありながら古さを感じさせないモダンな装い。塗装だけでも80型になるだけで引き締まって見えるのは気のせいだろうか。80型の幻影はこれからも人々の中に刻まれていくのだろう。

 

Report No.60 花道<後篇>

 衣浦臨海鉄道は碧南線と半田線を運営している第3セクター鉄道である。碧南線はフライアッシュ・炭酸カルシウム輸送を行っており、半田線は衣浦港周辺に点在する工場などへの工業材料、製品の輸送を主体とするコンテナ列車が運行されている。かつては専用貨物の運行も行われていたのだが、輸送需要の落ち込みなどから現在は1日1往復のコンテナ高速貨物のみとなっている。半田線は武豊線の東岩成駅から分岐し半田埠頭駅までを結ぶわずか3.4kmの路線であり、コンテナ高速貨物は武豊線大府駅から直通で運転される。

 なお、碧南線と違い、半田線は重連運用ではなく単機運用である。そして、半田線で運用される機関車はその日の碧南線の下り列車の先頭を務めた機関車が使用される運用となっている。このため、DD51の代走となると半田線でDD51牽引のコンテナ貨物が運行されることになる。今や構内など以外では見かけることがほぼできなくなってしまった非電化コンテナ貨物を牽引するDD51が撮影したく、前篇でお伝えした碧南線の運用は半田線へ転戦した。まずは昼過ぎの東岩成からの550レを撮影したのだが、三連休ということが重なってか両数が通常より多く残念ながら尻切れトンボになってしまった。しかし、本題はここからである。衣浦臨海鉄道の方々のご好意から機関区、および出発線、コンテナホームでの撮影許可が下り、大勢のギャラリーと共に社員のかたに連れられぞろぞろと構内へ。

 「お昼ごはんだけ食べさせてください、そしたら機関車移動させますんで(笑)」とは現業の方のお言葉。しばしお昼休憩の後、コンテナ列車から切り離され給油設備横に停車していたDD51を給油設備が足回りにかからない位置まで動かしてくださった。

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 半田埠頭駅にはいまだにタブレット授受器が設置されており、実際にタブレット閉塞で運転を行っている。残念ながらDD51-853のタブレット受けはかなり昔に撤去されているのでいささかミスマッチな印象はあるが、それでも数少なくなったタブレット授受器との2ショットを写さないわけにはいかなかった。

このあとはコンテナホームへ移動して撮影。

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 そろそろ出発線に移します、との案内がありDD51がDML61エンジンをとどろかせて出発線へ移動。時折顔を出す西日に照らされるその姿を至近距離で何回も切り取った。轟くエンジン、赤い車体を紅に染める西日。自身が生まれてもいなかった国鉄時代に少し思いをはせた夕方であった。

 

Report No.59 花道<前篇>

 DE10を基本とするDE11やDE15といった派生形式および各地の地方鉄道向けの支線用機関車は全て用途などが少しずつ違うのみでDD51と同じDML61系列エンジンなどの基本構成は同じである。更にいえばDE10系列は、DD51をもとに設計されている為、設計上DD51とDE10系列との大きな差は、本線向けか支線向けであるか、エンジンの搭載数と軸重程度である。共通設計故、DD51で走行可能な路線であればDE10で走行可能である。また、緊急に代替する必要が出る際には、別途運転できる運転士を養成したり、手配する必要もなく、整備場も共通部品が多いため非常に都合がよい。

 愛知県で半田線と碧南線の2線を運行している衣浦臨海鉄道ではDE10の派生形式であるKE65を使用しており、検査などで機関車数が足りない場合には愛知機関区のDD51を借り入れて運行を行っている。しかし、いくら共通設計といえども本線用機関車のDD51に対して本来入れ替え用であるDE10系列は運転台の向きや走行性能が異なるので、代替運転に備えて多少の訓練自体を行う必要がある。このため衣浦臨海鉄道では毎年数回、愛知機関区よりDD51を1両借入し訓練を行っている。

 去る2016年10月8日訓練運転が行われ、土曜日ということで碧南線と半田線両線で愛知機関区のDD51-853が運用された。昨年度訓練運転としてDD51-852が借入られた際に衣浦臨海鉄道開業40周年、および三岐鉄道とのフライアッシュ・炭酸カルシウム輸送25周年を記念してヘッドマークが取り付けられた。さすがに今年は節目の年ではないのでヘッドマークがつくとは思っていなかったのだが、話を聞いているとどうやら今年もヘッドマークがつくとのことだった。昨年は碧インターで撮影したので今年は明石陸橋で撮影することにして友人と連れ立って碧南市へ向かった。

 通過2時間前から設営を始めたが、天候は時たま晴れ間がのぞくものの雲は厚く、晴は期待できなさそうだった。顔見知りや他の友人たちも合流し、昨年できなかった超望遠アングルで構図を固め通過を待った。f:id:limited_exp:20161008222626j:plain

8時40分過ぎ、DD51-853がヘッドマークを掲げてKE65-5と協調重連運転を行いながらホキ1000を引き連れてゆっくりとやってきた。重い機関車と貨車のジョイント音の調べが大勢のギャラリーの足元を通過していった。

 これを撮ったあとは碧南市駅での荷下ろし前の停車を狙うため碧南市駅へと向かった。列車は一度本線から引き揚げたのち場内へ入れ替えを行い、荷下ろし線へ引き込まれる。荷下ろし線に停車すると衣浦臨海鉄道の方々から許可が下り、即席撮影会の始まりである。

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 荷下ろしまでの少々の時間、ヘッドライトを輝かせ停車するDD51をギャラリー皆が思い思いに切り取っていた。途中何度か太陽が挿し、そのたびに操車場内はシャッター音の嵐であった。心行くまで楽しんだ後は衣浦臨海鉄道の来年のカレンダーとキーホルダーを購入した。DF200の本格投入が迫り、切り抜きナンバーの国鉄色も853号機のみとなった今、輝かしい花道を準備してくれた衣浦臨海鉄道にはいくら感謝しても足りないだろう。本当にありがたさでいっぱいであった。

 この後は、碧南線内の訓練運転もあったのだが、返しのDD51牽引の貨物のみを撮って午後の半田線の部へと転戦した。半田線についてはまた後日掲載したいと思う。

 

Report No.58 村雨の日に

 大地を揺らし、黒煙と蒸気を吐き走る蒸気機関車の姿はいつの時代も人々を魅了してやまない。そして近年では、その魅力を利用して地域活性化などにつなげようという動きもみられる。ひとたび蒸気機関車が走るとなれば鉄道ファンのみならず多くの観光客を呼び込むことができるからだ。

 そんな中、東武鉄道が新たな動態保存運転計画へ乗り出した。東武鉄道というと全線電化の電車路線という印象が強い方が多いかもしれないが、ほんの50年前まで蒸気機関車が貨物を牽いて走っていた。そこで動態復活運転の蒸気機関車として白羽の矢が立てられたのがJR北海道の所有していたC11-207であった。C11-207は2000年に動態復活したものの、新型ATSの設置難、JR北海道の経営難などが重なり2014年に運用から離脱したのだった。

 東武鉄道ではこれを借り受けて動態復活運転を行うこととし、次に牽引する客車の手配を行うことになった。ここで、手配されることになったのがJR四国が保有しており長らく休車となっていた高松運転所所属の12系および14系であった。これらは多度津工場にて再整備の上東武鉄道へ譲渡されることとなった。四国からの譲渡とあって船での輸送も考えられたのだが、譲渡輸送はJR貨物による甲種輸送で行われることになった。輸送に際して、牽引機として送り込まれたのは今年国鉄色に復刻されたばかりのEF65-2139であった。EF65が12系・14系を牽引する、まさにムーンライト高知・松山の再現ともいえる編成が実現することになり輸送前日からインターネット上では話題沸騰となっていた。ここでさらに事件が起こる。なんと寝台特急「瀬戸」を模したヘッドマークが装着されたのだ。記録的日照不足と報道され、あいにくの雨模様と予報されいたのだがこれだけの大ネタ、再びお目にかかれるとも思えず友人たちと撮影に出向いた。

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 やってきたのは醒ヶ井~近江長岡の撮影地。はじめはまた別の撮影地で撮る計画もあったのだが、信号線が新設されていたりと変化がありこちらに変更した。低い雲と時折強くなる雨に悩まされながら大勢のギャラリーの方々と通過を待った。朝の通勤客を乗せた列車が何本か通過した後、雨に濡れた線路をゆっくりとEF65-2139が客車たちを引き連れてやってきた。JR東海から電気機関車と客車がなくなって久しい中、東海管内を客車列車が甲種輸送とはいえ通過したことは特筆すべきことだろう。

Report No.57 新世界より

日本の鉄道は土地柄路盤の弱い路線が多く、高速化や大量輸送、大出力化の足かせとなってきた。

これが顕著に表れているのがディーゼル機関車の歴史である。欧米ではディーゼル機関車というと主流は所謂ディーゼル・エレクトリック方式と言われるものだ。ディーゼルエンジンで直接車輪を回すのではなくディーゼルエンジンで発電機を回し、発電した電力でモーターを回し駆動するという方法である。この方式ではエンジンを一番効率のよい回転数で定速稼働させられること、エンジンと違ってトルク特性の制御しやすい電気モーターを利用できる。これらより、後述する液体式などで必要となる液体式変速装置などを搭載する必要がないため、容易に大出力化が可能となる。しかし、反面、発電機を載せる必要があり、抵抗器などの制御器、モーターを積む必要かあるため重量増となることから、路盤の弱い日本では近年まであまり普及しなかった。
日本でもっぱら普及していたのは液体式と言われる形態で、いわば自動車でいうオートマチックトランスミッション車のような形態である。これは、エンジンからの出力は一度液体式変速装置を通って車輪に伝えられるという方式で、全体として部品を少なくし軽量化できるが、液体変速装置の損失や大出力化対応などが難しく機関車の出力向上が難しいという欠点があった。
国鉄ではDD50やDF50などのディーゼル・エレクトリック方式の機関車を運用していたが、路盤制限によって重量に対して出力が低くなってしまったため主流にはなりえなかった。そこでこれらに変わって開発されたのがDE10やDD51といった液体式ディーゼル機関車であった。以前出力は不足気味であったが、当時の技術レベルからすると液体式が実情にあっていた。
 
しかし、近年、半導体分野などの技術革新によってパワーエレクトロニクスが進歩しディーゼル・エレクトリック方式でも発電機や制御器を小型化軽量化できるようになった。また、大出力液体式変速装置の開発が国鉄末期を境に行われなくなったことから、DD51の置き換えとしてはディーゼル・エレクトリック方式のDF200が開発された。
2014年には北海道内のDD51の運用を全て置き換え、JR九州ななつ星の牽引機としても製造されたDF200の次なる活躍は愛知機関区になる。現在、北海道から転用改造を受けて転属してきたDF200-223が試運転を実施中であり、本格始動まではまだ幾分か猶予がありそうだ。去る2016/9/24、79レ~72レのダイヤを使用した試運転があり友人たちと連れたって撮影に出向いた。往路の79レの編成はDF200-223を先頭にDD51-1804とDD51-825の重連が死重としてつく編成で、復路72レはこれに加えてタキ14両がつく編成であった。

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 往路79レを朝日~富田のカーブで撮影したのち、近所のラーメンに舌鼓をうち、弥冨~永和の白鳥信号所の撮影地へと向かった。この日はあいにく時たま小雨の降る天気であったが、白鳥信号所は晴ならばむしろ前面が逆光気味となる撮影地なので好都合であった。大勢のギャラリーが見守る中、DF200とDD51三重連に牽かれた石油貨物が駆けのぼってきた。DF200には珍しく煙を高々と上げ、軽快に走り去っていった。新世界はもうすぐそこまで来ているようだ。