ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.72 Express

 今や定期列車から消えてしまった急行列車であるが、かつては関西圏でも多くの急行列車が運行されていた。その一つが、急行「だいせん」であった。2004年に廃止された急行「だいせん」は、末期こそキハ65による運転であったが、1999年10月までは昼行はキハ58などが担当し、夜行はDD51が12系、14系、20系などを牽引する客車急行列車であった。客車列車として設定されていた方は、大阪~出雲市東海道、福知山、山陰経由で結び、時たまDD51の後藤車両所への入出場回送を兼ねて重連牽引、はたまた3重連となったり”ネタ”に富んだ列車であったそうだ。

 「だいせん」なき今、東海道本線DD51牽引の客車列車が走行することは、ごくまれになってしまった。そんな中、2016年はディーゼル機関車機関士養成のためにDD51と12系5両を使用した通称「網干訓練」が半ば定期のごとく数多く設定されており、年内を通じ楽しめた1年であった。

 年の瀬の12/28、網干訓練の運転があるということで山陽本線 垂水~舞子の撮影地へ。実は前日も設定があったらしいのだが、人身事故の影響で設定取り消しとなってしまったらしい。この日ばかりは・・・・と思い、意気揚々と2時間以上前に撮影地に着くとすでに知り合いがおり場所を少し融通していただいて設営。

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 時折晴れ間は除いていたものの、途中から雲行きが怪しくなり通過予想時刻直前から太陽は薄雲の中へ・・・。直前の上り普通電車が行ったあと、しばしの間をおいてDD51-1192に牽引された12系客車がやってきた。重く低いディーゼルエンジン音、軽やかな客車のジョイント音。これほど旅情を掻き立ててくれるものもないだろう・・・。

Report No.71 赤鼻

 愛知機関区に所属するDD51の多くは、貨物運用を主目的とした800番台車である。現在所属している800番台車は休車のものも含めて13両。そのうちの最若番は、1970年9月8日製造のDD51-825である。825号機はもちろん800番台車の中でも初期の機関車であり、切り抜きナンバーをはじめ初期車特有の3分割ラジエーターカバー、解放テコの取り回し、屋根上構造の違いなど様々なところで他と比べ差異がある。

 更に極めつけは、825号機がA更新車であることだ。825号機を除くA更新車は全てブロックナンバープレート方式であり、ナンバープレートは白で塗装されている。しかし、825号機は、切り抜きナンバーのためブロックナンバープレート方式のように白で塗装することができない。このため、ナンバーまわりはボンネット同様、赤で塗装されており、A更新車唯一の”赤鼻の機関車”となっているのだ。

 過去の例を見れば、九州地区などで使用されていた原色機DD51の前面ナンバープレートやその周りがブロック式ながら赤で塗装されていたことがあった。しかし、ボンネット上部はグレーで塗装されていたし、ライト周りには白帯が巻かれていたので赤鼻というほどではなかった。

 切り抜きナンバーの初期車がA更新工事を受けたからこそ実現した組み合わせである825号機の塗り分けは、個人的に前から興味を持っていたのでチャンスさえあればなくなるまでに一度はどんな形ででも撮りたいと思っていた。だが、天候や運用、自身の予定がかみ合わずなかなか撮れずにいた。そんなある日、ちょうど予定のなかった晴れの日に運用を見ると昼の79レに825号機が重連次位で運用に入っていた。この運用では何もなければこのまま返しの5380レで825号機が先頭に出る。実は裏で網干訓練も走っていたのだが、次にいつ825号機が撮れるともわからないのでこちらを優先。日没が厳しいことは知っていたが清州駅北側の踏切へ向かい通過を待った。

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 やはりこの時期、駅の影や植え込みの陰などが見る間見る間に延びる。つるべ落としとはよく言ったものだ。塩浜へ向かう75レが通過したあと少しして今にも影に飲まれそうな東海道本線を赤鼻の825号機先頭に5380レがやってきた。光線は1/3面光といったところか。

 次にチャンスがあればまた撮りたいものだ。

Report No.70 It's a small world

 新幹線や一部私鉄の1435mm、京王線・都営新宿線の1372mmを除けば日本の鉄道の大部分は軌間1067mm、いわゆる狭軌と呼ばれる軌間で敷設されている。しかし、このほかにさらに狭い軌間で敷設されている鉄道も存在する。狭軌よりも狭い軌間特殊狭軌と呼ばれる762mm軌間や610mm軌間を採用するいわゆる「軽便鉄道」の類だ。軽便鉄道は、その軌間故、車両を小さくつくらねばならないので輸送力は必然的に1067mmや1435mmには劣ることになる。しかし、反面、建設費が安く済むため一時は日本国内でも多くの軽便鉄道が建設された。そのうち、のちに国鉄へ転換されたものを除けば、そのほとんどが廃線となった。今や国内で営業鉄道として残る軽便鉄道四日市あすなろう鉄道三岐鉄道北勢線黒部峡谷鉄道の3つのみである。

 そのうち一つ、三岐鉄道北勢線は、西桑名駅から阿下喜駅を結ぶ1914年に建設された歴史ある20.4kmの軽便鉄道線である。歴史あるこの路線の中でも特に有名なのが「めがね橋」と「ねじり橋」である。このうち「めがね橋」は全国に数あるめがね橋の中でも珍しいコンクリートブロック製であり、北勢線でも特に有名な撮影地である。あるとき、四日市DD51の撮影に行った帰りにせっかくの晴天を無駄にするものもったいないと帰り道に友人と立ち寄ってみた。すると橋の前には少し終わりかけであったがコスモス畑が広がっており、あと20分ほどで列車が来るようであったので少し待ってみることにした。

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 しばらくして踏切が鳴り、やってきたのは黄色い3両編成の小さい電車だった。小さな長さの違う3両の電車。釣り合わない大きいパンタグラフ。もし、軽便鉄道が全国にもっと残っていればこんな風景を他にも見れたのだろうか。

 比較的近くには四日市あすなろう鉄道もある。近く訪れてみるのもいいかもしれない。

Report No.69 煤煙の記憶

 福知山線の宝塚~福知山間、山陰本線の福知山~城崎温泉間が電化され今年で30年になる。両区間とも現在では電車特急が闊歩する路線となっているが、電化前までは気動車優等列車や客車列車の楽園であった。キハ58やキハ181といった気動車が往来する中、客車列車を牽引していたのは主にDD51であった。「出雲」、「だいせん」といった山陰本線の顔を牽いていたのはもちろんDD51であり、まさに主役であった。

 電化後、昼夜運転されていた「だいせん」は昼行列車が183系を使用した電車特急「北近畿」へ統合され廃止となり、夜行のみの運転となったのち運転区間の縮小、さらには気動車化され客車列車としての歴史に幕を下ろした。また、最後までDD51牽引の客車列車として残っていた寝台特急「出雲」も2006年3月18日ダイヤ改正をもって廃止となり両線区の客車列車は完全に過去帳入りしたのだった。

 さて、この2016年、30周年を記念して電化記念列車が運転される運びとなった。はじめ聞いたときは「どうせ、381系か117系あたりを使った列車が走るのだろう」と高を括っていたのだが、よくよく聞くとDD51牽引でサロンカーなにわが走るという。ここ最近、福知山線山陰本線で客車列車の運転が少なく、なかなか記録できずにいたところへこの運転の知らせとあって、運転日、2016年7月18日の1週間前から意気揚々とレンタカーを予約したのだった。

 いざ前日になってみると天気予報はどうもご機嫌斜め。完全に丸つぶれ、というわけではなかったが、晴れるかどうかは少々疑問符が残る空模様だった。それでも気の合う友人たちとの久々の鉄とあってレンタカーを駆って福知山方面へと足を延ばした。谷川駅付近や丹波竹田付近のストレートで往路を狙ったのだが、どちらも厚い雲に阻まれあえなく撃沈。少々士気の下がる中、復路を狙うため、山陰本線の国府~江原の撮影地へ。

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 着いてみるとすでに雑木林のように三脚が林立する場所取り合戦。圧倒される中なんとか場所を確保して通過を待った。雲が太陽の前を往ったり来たりとヒヤヒヤしながら、神頼み。通過時刻が近づくにつれてだんだんとあたりは晴れ間がのぞくようになった。「ピイッ!」っと軽い汽笛一声聞こえたかと思うと踏切が鳴ってDD51-1191が煤煙濛々とサロンカーなにわ6両を引き連れてやってきた。ここまでの黒煙が上がるのをみたのはいつぶりだろう。初夏の日差しの中、煤煙の記憶に思いをはせた。

Report No.68 珍道中

 何事も練習あるのみ、とはよく言ったものだが鉄道もまた例外ではない。電車、気動車電気機関車ディーゼル機関車、新幹線、さまざまな車両で乗務員の訓練が日夜行われている。JR旅客各社の場合、電車や気動車であれば営業列車を用いての訓練を行うことができるのだが、機関車となるとそう簡単にはいかない。なぜなら、今や機関車牽引の定期列車は皆無であり、不定期に工事用の列車や臨時列車の牽引などのために走るのみだからだ。このため、例えばJR西日本であれば網干訓練(Report No.10 網干訓練 - ぽっぽ屋備忘録)、JR東日本であれば信越訓練(Report No.50 Give me chocolate! - ぽっぽ屋備忘録)などのように営業列車とは別に様々な訓練列車を仕立てて乗務員の養成・訓練を行っている。

 JR四国もまた不定期にDE10を用いた乗務員訓練列車が運転されている。JR四国の場合、客車は既にないため、レール輸送車であるチキ6000などを用いて乗務員訓練を行っている。ところが11月、ネットで乗務員訓練の写真を見て驚愕した。なんと、チキではなくキハ185系が用いられているではないか。更には中間車にはアイランドエクスプレス車が組み込まれているではないか。知人から「晴れそうな日があれば行ってみないか」と誘われたこともあって、顔なじみ3人と幾年か振りに四国へ渡ることにした。

 道中知人たちを拾いつつ朝、四国は多度津へついてみると晴れ予報は一転曇りの様相。2往復運転される乗務員訓練のうち1本目はいく撮影地全てで曇りとなってしまい些か残念な結果に。このまま2往復目も曇ってしまうのではないかと思われた。2往復目の往路を撮る場所として選んだのは土讃線 黒川~讃岐財田のカーブ。最初は雲が多く晴れるかどうかやきもきしたが通過時刻が近くなるにつれて青空の面積が増えてきた。

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 南風や2000系出場回送が通過した後、ゆっくりとカーブをキハ185系を引き連れてDE10-1139がやってきた。少々色あせて錆びもうき、色あせたディーゼル機関車、こういうと聞こえは悪いがこれぞ現役の罐といったところか。赤、青、銀、オレンジ、色とりどりの風が真横を通り過ぎて行った。

Report No.67 面影

 2000年以降、青い機関車と青い客車、「ブルートレイン」と呼ばれ親しまれた寝台列車たちの時代は高速道路網の発達や新幹線網の延伸、航空券の低価格化などによって続々と終焉を迎えた。京都~長崎を結んだ寝台特急「あかつき」もその一つであった。「あかつき」は、1990年から「レガートシート車」と呼ばれる14系座席車を連結するなど旅客の誘致に努力していたが、旅客減少と車両老朽化には逆らえず、2008年3月14日ダイヤ改正をもって、当時併結列車であった「なは」と共に廃止となった。

 廃止から8年以上がたった今年、長崎デスティネーションキャンペーンが開催されることに合わせて大阪から長崎まで14系大サロこと「サロンカーなにわ」による臨時列車が日本旅行主催で運行されることになった。その名も「サロンカーあかつき」。日本旅行の公式プレスによれば「あかつきをイメージしたヘッドマークを掲出します。」とのことであったので、いつもサロンカーなにわを使用する際の臨時列車のようなサロンカーなにわのヘッドマークをアレンジしたオリジナルヘッドマークが掲げられるものと思っていた。 すると数日前になって風の噂で流れてきたのは往路純正、復路オリジナルヘッドマークという話だった。これは行くしかないと決め撮影地を選定にかかったのだが、いかんせんこの列車、11月25日16時02分に大阪駅を出るというダイヤ設定であったため日の出ている間に順光で撮影できる区間が大阪~須磨の間のみとなっていた。そのうえ純正HMが掲出されるとは言え後ろにつくのはサロンカーなにわ。どこか違和感を覚えてしまう組み合わせであったのでここは編成撮りより面縦でヘッドマークを目立たせるほうがよいのではないかという話を友人とし、友人が苦心の末見つけてきた場所で撮影することにした。

 11月25日、当日朝は少し雲があったものの夕方が近づくにつれ天候は回復、秋晴れの様相を呈していた。多くのギャラリーが詰め寄せる沿線を横目に友人と二人でセッティング。通過を待った。本番通過の露払いにやってきたのは新快速、このときちょうど太陽が雲に隠れてしまい、本番もこのままかと思われた。

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 新快速通過後、太陽は雲から抜け、5分しないうちにPFのヘッドライトが見えた。太陽高度5度という絶好の秋の斜光線の中、EF65-1132が往年の「あかつき」単独ヘッドマークを掲げて「サロンカーあかつき」として東海道を下ってきた。

Report No.66 おしろい

 秋田県は、県下地域の約90%が特別豪雪地帯に指定されるほどの豪雪地帯である。これは日本海対馬暖流からもたらされる湿った空気によってもたらされる雪であり、水分を多く含んだいわゆるベタ雪である。

 北海道の鉄道車両がよく前面に雪を目いっぱいつけて走っていることがあるが、北海道の友人に言わせればこれはベタ雪だからだそうだ。もちろん、降る量や車両の速度にもよるが、一般にベタ雪のほうが引っ付きやすく、粉雪と呼ばれるようなものはあまり引っ付かない。そう、実は車両の前面に雪を目いっぱいにつけて・・・・という事象はいろいろな条件が適切に組み合わされなければ成立しないのだ。

 2014年3月、折しも私が東日本、北海道地域を遠征しており北上する中、寒波が到来していた。秋田に近づくにつれて雪は深くなり、冷え込みも厳しさを増していった。当時、485系新潟車が特急”いなほ”から撤退することが決まっており、遠征中可能ならば記録せねばと思っていた。秋田駅に立ち寄った際に、ちょうど”いなほ1号”で到着する運用を撮れることが分かり時折雪舞い散る秋田駅でスナップした。

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 顔一面とはいかなかったが、日本海側特有のベタ雪を顔にひっつけて少し”おしろい”をぬった485系上沼垂色がホームで発車を待っていたのを記録した。数か月後、上沼垂色は全車引退し、常磐線から活躍の場を移してきたE653系へと役目を引き継いだ。