ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.104 走る舞台

 オリエント急行といえば、アガサ・クリスティーの名作推理小説オリエント急行の殺人」など数々の文学作品、映画の舞台にもなった鉄道ファンならずとも多くの人が知っている列車だ。オリエントはもともとラテン語で東方、東洋を指す言葉で、転じてヨーロッパから見た中近東あたりを指す言葉として後に定着した。西欧から一番近い東洋、それはトルコ・イスタンブールであり、フランス・パリとイスタンブールを結ぶ寝台列車に端を発した列車の一群をオリエント急行と呼ぶようになった。最盛期にはパリのほかにミュンヘンストックホルムといったヨーロッパの主要都市などを起点としてギリシャルーマニアクロアチアスロベニアなどへ多くの列車が運行されていた。これだけならば、単なる広範囲国際列車でしかないのだが、オリエント急行オリエント急行たらしめた最大の特徴はその客車にあった。高貴な深い青を基調に金色の装飾をあしらった外観、コンパートメント式客室、貴賓室のような内装、食堂車の連結といった豪華寝台列車と名乗るにふさわしい客車、編成を採用したことが後にオリエント急行を豪華寝台列車の代名詞にまで昇華させたといってもいいだろう。

 オリエント急行は2度の世界大戦による運行休止を挟みながらも、近年まで運行が続けられていたが、第二次世界大戦後は冷戦による東西分断、モータリゼーションの進行、航空機の大衆化などが相まって徐々に運行区間の短縮、運行系統の廃止などが進み1977年にはパリ-イスタンブール系統が廃止、2008年パリ-ウィーン系統の廃止を最後に寝台列車としての役目に終止符を打った。

 だが、現在もオリエント急行の名を冠する列車がいくつか運行されている。その一つがVenice Simplon Orient Express、VSOEの略称で知られる観光寝台列車だ。オリエント急行の生みの親、「国際寝台車会社(ワゴン・リ社)」によって1920年代に製造された寝台客車を中心に、プルマン社によって同じく1920年代に製造された食堂車などを連結した豪華17両編成でフランス・カレー~イタリア・ヴェネチア間を主なルートとしてその他ヨーロッパ各地、そしてイスタンブールなどのルートで運行されている。

 長々とした前置きであったが、今月弊ブログの更新が止まっていたのには理由がある。このVSOE、およびその他ドイツ・スイス周辺の鉄道を撮影するべく中央ヨーロッパへと飛んでいたからだ。9月15日、かの有名な鉄道の難所、スイスのゴッタルド峠の有名撮影地、Wassenにてヴェネチア行きVSOEを迎えうった。この日は早朝からスカっ晴れ。高原の朝の冷たい空気の中ホテルを後にして15分ほどかけて山腹を撮影地に向けて登った。撮影地に着いたときは、通過1時間前でまだ切り位置は山影の中、本当にこの後山影が抜けるのか疑いながら通過を待つ。実は昨年にこの区間をバイパスするゴッタルドベーストンネルが完成しておりもうこの区間はメインルートではないのでたまにやってくる普通電車と回送、観光列車、少しの貨物列車を除けばほとんど列車が来ることはない。

f:id:limited_exp:20181030011244j:plain

 2本ほど普通電車が行ったあと、定刻より少し遅れて主役が登場となった。このWassenでは線路は2段つづら折り状態になって勾配を克服しており、ヴェネチア方面へ向かう列車はつづら折りを順々に登って撮影地までやってくる。つづら折りの一番下にその特徴的な車体が見えてから少したって2段目、大きく編成をくねらせながら撮影地奥の山に吸い込まれていく。最下段を通過してから5分強、スイス連邦鉄道Re420型電気機関車重連牽引で走る舞台は峠を越えてやってきた。 

Report No.103 九頭竜川

 鉄道のダイヤグラムでは列車一つずつに列車番号と呼ばれる管理番号が振られていおり、JRの場合、それぞれの列車は1~9999までのいずれか数字で表される。付番方法には規則があり、特に6000、7000、8000、9000番代は所謂臨時列車のための列車番号である。6000~8000番代は季節臨時や予定臨時と呼ばれる列車のための番号であり、あらかじめダイヤを設定しておき、必要に応じてそれを利用して列車を運行する。9000番台は、というと、完全な臨時列車であることが多い。レールやバラストを輸送する所謂工事臨時列車、工臨もこの9000番台の列車であることが多い。なぜなら、輸送する起点は毎回同じかもしれないが、レールの交換場所、バラストの取り換えが必要な場所は毎回異なるわけで、現場での作業時刻に合わせるためには固定のダイヤで運転するわけにはいかないからだ。ただ、毎回別々のダイヤを用意するのは運行間隔や待避の関係などから面倒であるので、ある程度パターン化されている。

 さて、今回も毎度おなじみの金沢方面へのロングレール工臨が7月26日に運転されると聞いて撮影に出向くことにした。この日のダイヤは福井近郊を17時過ぎに通過するものであった。時期柄、まだ太陽は少し北西に沈むので福井~森田間にある九頭竜川橋梁へ向かった。ついてみると怪しい雲が垂れこめており些か負け戦の雰囲気を醸し出していた。だが捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのことだろうか、通過時刻が近づくにつれて一度曇っていたものが気付けば雲は遥か彼方へ去っていた。

f:id:limited_exp:20170730053659j:plain

 鋭い夏の夕日の中、DD51がロンチキと共にやってきた。2機のDML61Zの咆哮と重々しいジョイント音を奏でて縁の下の力持ちは金沢へ向かって行った。去就が噂されるDD51だが、最近では1191号機にクーラーが取り付けられ、かつてSG室窓であったところが埋められるなど外観の変化が生じ始めている。クーラー取り付けということもあって、もうしばらく活躍は拝めそうだが、原型に近い姿を記録するならば今のうちなのかもしれない。

Report No.102 おわら風

 お盆というと、京都五山送り火に代表されるように全国で祭りや慰霊行事が多数催される。お盆行事の多くは8月15日を中心に前後数日に集中して行われるが、中には盆と名はついているものの、これ以外の期間で開催されるものもある。その一つが富山県の八尾地区で催される「おわら風の盆」だ。風の盆とはいうものの、名前の由来についてはっきりとしたことはわかっていないそうだ。さて、このおわら風の盆、8月20日から9月3日までの比較的長期間開催され、開催時期にはJRなどでも臨時列車が増発される。

 かつてであれば、キハ181やキハ65エーデル・シュプールを使用した臨時特急などが運転されており、撮り鉄的なネタに事欠かなかった。だが、今ではサンダーバードの富山乗り入れすらなくなり、キハ181、キハ65などの引退もあり年々寂しくなっていくばかりだ。そんな中、団体ツアー限定ではあるものの、おわら臨として期間中数回、サロンカーなにわを使用した列車が設定されることがある。これには敦賀以北への運転となるため、敦賀所属のEF81がその牽引にあたることになる。日本海およびトワイライトエクスプレスなき今、トワイライトエクスプレス色EF81の数少ない運用場面というわけでファンとしては見逃せない運用だ。

 2016年9月3日、旅行会社の企画ツアーでサロンカーなにわ7両フル編成での金沢までの「おわら臨」が運転されることになり、撮影に出向いた。北陸新幹線開業で金沢以北が第3セクター化されたことで、金沢以北への乗り入れがなくなってしまったのはいささか残念だが、老兵EF81の花形運用を撮れることは喜ぶべきなのだろう。

f:id:limited_exp:20170415161555j:plain

 この日は山崎のサントリーカーブへ出向いたのだが、空模様は通過時刻が近づくにつれ下り坂。時折雨がパラつく有様だった。あいにくの曇天の中、EF81-113に率いられてサロンカーなにわがやってきた。サロンカーなにわの純正ヘッドマークの柄をアレンジしたおわら特製ヘッドマークはなかなかかっこよいものだった。

 今年も同じようなサロンカーなにわ使用の北陸方面への団体臨時がいくつか企画されているので、今年こそ晴れでいただきたいものだ。

Report No.101 天高く馬肥ゆる秋

 一口に「団体臨時列車」と言ってもその内容は様々である。旅行会社のツアー企画であったり、結婚披露宴を兼ねたブライダルトレインであったり、企業や学校の部活動の遠征や節目の記念ツアーであったり、はたまた修学旅行であったりと、その内容は実に多岐にわたる。

 かつては、団体臨時列車というと普通の車両のほかにジョイフルトレインと呼ばれた団体列車用車両たちが頻繁に運用されていた。国鉄末期に14系客車を改造したサロンエクスプレス東京を皮切りに客車を中心として気動車や電車、さまざまな車両が改造されジョイフルトレインとなった。JR化後は主に電車や気動車が改造の対象となり、客車ジョイフルトレインを置き換えるなどした。国鉄時代に改造されたジョイフルトレインの多くは老朽化に伴ってその多くが今では引退したが、まだ少数が活躍を続けている。そのうちの一つが大サロの名で親しまれる14系欧風客車「サロンカーなにわ」である。つい先日には7両すべてが網干車両所で全般検査を受け出場しており、しばらくの間はまだ活躍が拝めそうである。

 さて、天高く馬肥ゆる秋とはよく言ったもので、秋となると空が格段に青みを増してくる。そして青さが増すと同時に写欲も増してくるのは撮り鉄のサガだろうか。2013年の9月28日、ワケあって徹夜していて朝方何気なくネットを見ていると何やらサロンカーなにわフル編成が中央大学鉄道研究会主催で運行されるらしいとの情報をキャッチ。今ならまだ淀川橋梁での撮影に間に合うと踏んで、急きょ友人に電話するもあいにくの就寝中。仕方がないのでそのまま単身大阪へ向かった。天気はところどころ薄い雲がある秋晴れ。光線はまだ低めで雲にはかかっていなかった。淀川橋梁は欄干があるのでかぶりついて撮るのは気が進まず、せっかくなので秋空を入れて川辺から広角で撮ることに。

f:id:limited_exp:20170607004447j:plain

 素晴らしい光線の元、青いPFに牽かれて7両フル編成のサロンカーなにわがやってきた。聞くところによれば、これは中央大学鉄道研究会設立50周年記念で企画されたものだったそうだ。歴史ある部ともなればこういった大掛かりなこともできるのだと感心した。

Report No.100 復刻

 SLやまぐち号には永らく、12系客車を改造したレトロ調車両が用いられてきた。しかし、使用されている12系は、最も新しいものでも1971年製であり車齢は46年を超えている。車齢46年ともなれば、経年による老朽化は深刻で、近々置換計画が持ち上がるのではないかと常々言われていた。2015年3月30日、ついにその置換計画が発表された。置換計画には「旧型客車を復刻した客車を新製投入する」とあり、「新型旧型客車」なる不可思議な言葉がファンの間でささやかれるようになった。発表から丸2年と少しが過ぎた2017年6月、ついにその「新型旧型客車」が新潟トランシスから出場した。新型旧型客車の形式は35系とされ、かつての国鉄オハ35系のオマージュになっていた。最近のJR西日本の車両と同様のクーラーを搭載していたり、ボルスタレス台車を履いていたりするものの、ぱっと見は旧型客車にしか見えない仕上がりになっており、平成の時代にとんでもないものが誕生したのだと実感した。

 無論、新型車両であるので、走行する線区を中心に試運転が行われることは明白であり、山口線で試運転ともなれば下関に所属するDD51-1043が牽引することになるのではないかと期待していた。DD51-1043はJR西日本に所属するDD51のうち唯一の中期型の機関車である。一番の特徴は側面のラジエーターカバーが3分割メッシュになっていることなのだが、実は1エンド側前面にも特徴がある。中期型は通常、解放テコのとりまわしが前面手すり内側(車体側)になっているのだが、1043号機は1エンドの非公式側手すりが後期型のものに変更されており、車体左右で解放テコの取り回しが異なっている。他にも最近ではテールライトがクリアテールに変更されたこともあり、現存するDD51の中でもかなり異質な機関車になっている。

 そんなDD51-1043による35系試運転の予想は的中。知人から6月26日にDD51-1043牽引で山口線試運転が行われるとの情報を得て、友人たちと一路西へ下った。当日の予報はあいにくの曇り。だが、山口線のSLやまぐちで有名な撮影地の多くは逆光であるので、この際少しくらい曇りのほうが都合がよかった。まず最初に陣を張ったのは宮野~仁保の大山路踏切。早朝から多くのファンが詰めかける中、知人や友人たちと和気藹々と談笑しながら通過を待った。

f:id:limited_exp:20170628021457j:plain

 晴れると逆光のこの撮影地、今日ばかりは曇り空がありがたかった。少ししわがれたような哀愁漂う警笛を鳴らしながらDD51-1043に率いられて35系新型旧型客車がやってきた。クーラーを目立たないように撮ってみると本当に国鉄時代にタイムスリップしたような不思議な感覚になった。

 大山路で撮影後はすぐに撤収、次の撮影地に急いだ。あまり停車のないダイヤでの運行だったので当初は徳佐周辺まで行って撮る予定だったのだが、どうやら撤収が早かったこともあって長門峡手前で追い抜くことができた。長門峡周辺は突如として青空が一部広がっており、晴れならば順光になる長門峡へ行くしかないと即断、急きょ予定変更し鉄橋の撮影地へ。

f:id:limited_exp:20170628021523j:plain

 いかにも梅雨といったところの湿っぽい晴れ間を縫って旧型客車列車がやってきた。クーラーが屋根に対して1段低く設置されていることもあってか側面気味に撮ってもさほど目立たずなかなかサマになっている。機関車次位がダブルルーフ風展望車というのもこれまたかっこよさを演出してくれている。この後も津和野方面まで追走し、返却も撮影したのだが、運よく晴れた長門峡のカットが一番感慨深かった。

Report No.99 40周年

 衣浦臨海鉄道碧南線は今年2017年5月25日に開業40周年を迎えた。多くの鉄道会社ではそういった記念事があると臨時列車や車両基地公開などのイベントが行われることが多い。衣浦臨海鉄道も例外ではなく、イベントが行われるのだが臨海鉄道という性質上、貨物列車のみの運行であるので旅客列車が走るイベントは行われない。その代わりといってはなんだが、5月25日から5月28日まで、開業40周年記念ヘッドマークがつくことになった。

 碧南線で運転されているのは炭酸カルシウム輸送列車1本、フライアッシュ輸送列車2本で、炭酸カルシウム輸送の5570レはその後のフライアッシュ輸送列車2本(5571レ、5573レ)のための機関車送り込みを兼ねて重連で運転される。重連に率いられるのはホキ1000形ホッパー車で、最大16両が連結される。5571レ、5573レではこの16両が2回に分けられKE65単機牽引でフライアッシュを輸送することになる。こうなると、やはり重連でホキ1000形16両編成を率いてくる5570レが撮影対象としてはメインになる。

 個人的にはDD51の方が好みであるので、DD51がKE65の代走を務めるときは何度か訪れていたのだが、KE65が牽引する通常時はまだ訪問したことがなかった。HMがつくと聞いて少し訪問欲がくすぐられつつも、なかなか重い腰を上げられずにいると、26日夜に友人から天候もよさそうなので行かないか、とお誘いをいただいた。せっかくの誘いなのでと友人の車に同乗し一路碧南は明石陸橋へ。薄明るくなるころに場所のめぼしをつけて友人の車でウトウトと朝日が昇るまで仮眠。そろそろ人が増えてきた頃、機材をもってセッティングを始めた。

f:id:limited_exp:20170529182221j:plain

 練習列車がないのが痛いがなんとかこのくらいだろうという構図を見繕って通過を待った。この日は澄み渡るように晴れた日で光線条件はこれ以上ないほどに完璧だった。8時半を少しすぎたころ、KE65重連に率いられてゆっくりとホキ16両がやってきた。先頭にはもちろん碧南線開業40周年のHM。銀縁のHMというのがこれまた格好良かった。

 

Report No.98 復活

 蒸気機関車と言われて多くの人が真っ先に思いつくのはもはや代名詞にもなっている「デゴイチ」だろか。1935年に製造開始し、1950年の製造終了までに1115両が製造され、北は北海道、南は鹿児島まで配置され、全国どこでも見ることのできる機関車だった。それゆえ蒸気機関車の代名詞になれたのだろう。1115両製造されたうち、178両が保存されたが本線走行可能な動態保存機は最近までたったの1両、JR東日本の所有するD51-498のみであった(※注1)。そんな中、2014年にJR西日本は現在主にSL北びわこで使用しているC56-160が老朽化していることを理由にこれまで梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)で動態保存されていたD51-200を本線復帰させることを発表した。8620形8630やC62-2、C58-1などマニアックな機関車が多数所属する梅小路区の中からD51-200が選ばれたのはやはり蒸気機関車の代名詞だからだろうか。

  本線復帰にあたっては、老朽化、劣化していた部品が全面的に修繕され、SL北びわこの牽引を視野にいれ、ATS-Pが設置された。他には後方監視カメラの設置や、ライトのシールドビーム化、旋回窓の設置、金帯装飾の追加など外観に変化が生じている。

 2016年10月20日、満を持して本線試運転が行われる運びとなり、EF65に牽引され北陸本線へと試運転へ行くはずだったのだが、回送途中に炭水車が軸焼けを起こし試運転は中止になった。この後、数か月軸焼け故障の修繕を行い、2017年5月19日に本6線自走試運転が行われ、晴れて本線復帰となった。そして6月に入り、12系5両を連結したSL北びわこを想定した単独試運転3日と4日に行われた。

 6月4日は初夏には珍しく驚くほど澄んだ青空だった。夕刻、D51-200がEF65に連れられて梅小路へ帰ってくるという情報を知人からいただき、それならばシルエットでもどうかと思いたちふらっと東海道本線は稲枝~能登川へ赴いた。

f:id:limited_exp:20170607004637j:plain

 ついてみると思ったより築堤が高くなく、構図に苦労したのだが、どうにか路肩に超ローアングルで構えて対処。ファインダー左端ぎりぎりに太陽が傾いてきたころ、ゆっくりとEF65に引き連れられてD51-200がやってきた。D51-200がこれからどんな活躍を見せてくれるのか、実に楽しみだ。