ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.61 Remember me

 かつて京阪三条から三条通を通り山を越えて山科まで京阪が走っていた、と言っても若い人なら信じることはできないだろう。京都市営地下鉄東西線が開通するほんの19年前まで、京阪京津線浜大津から三条京阪まで併用軌道と専用軌道で結ばれていた。このころ、京津線でひときわ異彩を放っていたのが80型電車であった。80型は1961年~1970年まで製造された車両で、吊り掛け駆動ながら、急勾配の山岳路線に対応するため抑速回生ブレーキや定速制御機能、大出力主電動機を装備するなどの意欲的な走行装置を搭載しており、車体も準張殻構造の卵型断面を採用し、前面は、前面から側面へ回り込むパノラミックウインドウを使用する3枚分割前面窓を採用する端正なヨーロッパ風デザインとされるなど、それまで大正末期や昭和初期の車両が闊歩していた京津線の中では一線を画す車両であった。塗装もそれまでの若草色を地に窓から下を青緑色とするツートン塗装ではなく、若草色を地するものの、少し明るめの青緑色を窓周りに配色した塗装であった。

 京阪本線は1983年に600Vから1500Vへ昇圧したが、1969年に三条京阪駅京阪本線との連絡線が撤去されており京阪本線へ直通運用することもなくなっていたので京津線は昇圧されることはなかった。しかし、京都市内から山科方面への京都市営地下鉄東西線が建設されることになり、京津線三条京阪~御陵間が競合することになった。そこで、協議の末、京津線を1500Vへ昇圧し当該区間を廃止、東西線へ京阪車両が乗り入れを行うこととなった。80型は600V電化車両であったことに加え、東西線開業時の1997年にはすでに車齢30年超えの老朽化車両であったので東西線開業に合わせ運用を離脱、廃車された。

 今年2016年は、80型誕生から55周年の節目であり、京阪ではこれに合わせて現在石山坂本線で活躍する700形に80型の塗装を施し2020年まで運行することになった。現在の石山坂本線でかつての京津線京都府下の併用軌道区間に近いのは浜大津駅周辺の併用軌道である。記録的日照不足といわれる中、久々の晴れの日であったので、浜大津へ復刻塗装編成を撮影に向かった。運用を特に確認したわけではなかったのだが、ついてみると1時間ほどでくるようで、多くのギャラリーがすでに陣を張っていた。

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 1時間ほどして快晴のもと復刻塗装編成、701-702編成がやってきた。どこかノスタルジックでありながら古さを感じさせないモダンな装い。塗装だけでも80型になるだけで引き締まって見えるのは気のせいだろうか。80型の幻影はこれからも人々の中に刻まれていくのだろう。

 

Report No.60 花道<後篇>

 衣浦臨海鉄道は碧南線と半田線を運営している第3セクター鉄道である。碧南線はフライアッシュ・炭酸カルシウム輸送を行っており、半田線は衣浦港周辺に点在する工場などへの工業材料、製品の輸送を主体とするコンテナ列車が運行されている。かつては専用貨物の運行も行われていたのだが、輸送需要の落ち込みなどから現在は1日1往復のコンテナ高速貨物のみとなっている。半田線は武豊線の東岩成駅から分岐し半田埠頭駅までを結ぶわずか3.4kmの路線であり、コンテナ高速貨物は武豊線大府駅から直通で運転される。

 なお、碧南線と違い、半田線は重連運用ではなく単機運用である。そして、半田線で運用される機関車はその日の碧南線の下り列車の先頭を務めた機関車が使用される運用となっている。このため、DD51の代走となると半田線でDD51牽引のコンテナ貨物が運行されることになる。今や構内など以外では見かけることがほぼできなくなってしまった非電化コンテナ貨物を牽引するDD51が撮影したく、前篇でお伝えした碧南線の運用は半田線へ転戦した。まずは昼過ぎの東岩成からの550レを撮影したのだが、三連休ということが重なってか両数が通常より多く残念ながら尻切れトンボになってしまった。しかし、本題はここからである。衣浦臨海鉄道の方々のご好意から機関区、および出発線、コンテナホームでの撮影許可が下り、大勢のギャラリーと共に社員のかたに連れられぞろぞろと構内へ。

 「お昼ごはんだけ食べさせてください、そしたら機関車移動させますんで(笑)」とは現業の方のお言葉。しばしお昼休憩の後、コンテナ列車から切り離され給油設備横に停車していたDD51を給油設備が足回りにかからない位置まで動かしてくださった。

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 半田埠頭駅にはいまだにタブレット授受器が設置されており、実際にタブレット閉塞で運転を行っている。残念ながらDD51-853のタブレット受けはかなり昔に撤去されているのでいささかミスマッチな印象はあるが、それでも数少なくなったタブレット授受器との2ショットを写さないわけにはいかなかった。

このあとはコンテナホームへ移動して撮影。

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 そろそろ出発線に移します、との案内がありDD51がDML61エンジンをとどろかせて出発線へ移動。時折顔を出す西日に照らされるその姿を至近距離で何回も切り取った。轟くエンジン、赤い車体を紅に染める西日。自身が生まれてもいなかった国鉄時代に少し思いをはせた夕方であった。

 

Report No.59 花道<前篇>

 DE10を基本とするDE11やDE15といった派生形式および各地の地方鉄道向けの支線用機関車は全て用途などが少しずつ違うのみでDD51と同じDML61系列エンジンなどの基本構成は同じである。更にいえばDE10系列は、DD51をもとに設計されている為、設計上DD51とDE10系列との大きな差は、本線向けか支線向けであるか、エンジンの搭載数と軸重程度である。共通設計故、DD51で走行可能な路線であればDE10で走行可能である。また、緊急に代替する必要が出る際には、別途運転できる運転士を養成したり、手配する必要もなく、整備場も共通部品が多いため非常に都合がよい。

 愛知県で半田線と碧南線の2線を運行している衣浦臨海鉄道ではDE10の派生形式であるKE65を使用しており、検査などで機関車数が足りない場合には愛知機関区のDD51を借り入れて運行を行っている。しかし、いくら共通設計といえども本線用機関車のDD51に対して本来入れ替え用であるDE10系列は運転台の向きや走行性能が異なるので、代替運転に備えて多少の訓練自体を行う必要がある。このため衣浦臨海鉄道では毎年数回、愛知機関区よりDD51を1両借入し訓練を行っている。

 去る2016年10月8日訓練運転が行われ、土曜日ということで碧南線と半田線両線で愛知機関区のDD51-853が運用された。昨年度訓練運転としてDD51-852が借入られた際に衣浦臨海鉄道開業40周年、および三岐鉄道とのフライアッシュ・炭酸カルシウム輸送25周年を記念してヘッドマークが取り付けられた。さすがに今年は節目の年ではないのでヘッドマークがつくとは思っていなかったのだが、話を聞いているとどうやら今年もヘッドマークがつくとのことだった。昨年は碧インターで撮影したので今年は明石陸橋で撮影することにして友人と連れ立って碧南市へ向かった。

 通過2時間前から設営を始めたが、天候は時たま晴れ間がのぞくものの雲は厚く、晴は期待できなさそうだった。顔見知りや他の友人たちも合流し、昨年できなかった超望遠アングルで構図を固め通過を待った。f:id:limited_exp:20161008222626j:plain

8時40分過ぎ、DD51-853がヘッドマークを掲げてKE65-5と協調重連運転を行いながらホキ1000を引き連れてゆっくりとやってきた。重い機関車と貨車のジョイント音の調べが大勢のギャラリーの足元を通過していった。

 これを撮ったあとは碧南市駅での荷下ろし前の停車を狙うため碧南市駅へと向かった。列車は一度本線から引き揚げたのち場内へ入れ替えを行い、荷下ろし線へ引き込まれる。荷下ろし線に停車すると衣浦臨海鉄道の方々から許可が下り、即席撮影会の始まりである。

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 荷下ろしまでの少々の時間、ヘッドライトを輝かせ停車するDD51をギャラリー皆が思い思いに切り取っていた。途中何度か太陽が挿し、そのたびに操車場内はシャッター音の嵐であった。心行くまで楽しんだ後は衣浦臨海鉄道の来年のカレンダーとキーホルダーを購入した。DF200の本格投入が迫り、切り抜きナンバーの国鉄色も853号機のみとなった今、輝かしい花道を準備してくれた衣浦臨海鉄道にはいくら感謝しても足りないだろう。本当にありがたさでいっぱいであった。

 この後は、碧南線内の訓練運転もあったのだが、返しのDD51牽引の貨物のみを撮って午後の半田線の部へと転戦した。半田線についてはまた後日掲載したいと思う。

 

Report No.58 村雨の日に

 大地を揺らし、黒煙と蒸気を吐き走る蒸気機関車の姿はいつの時代も人々を魅了してやまない。そして近年では、その魅力を利用して地域活性化などにつなげようという動きもみられる。ひとたび蒸気機関車が走るとなれば鉄道ファンのみならず多くの観光客を呼び込むことができるからだ。

 そんな中、東武鉄道が新たな動態保存運転計画へ乗り出した。東武鉄道というと全線電化の電車路線という印象が強い方が多いかもしれないが、ほんの50年前まで蒸気機関車が貨物を牽いて走っていた。そこで動態復活運転の蒸気機関車として白羽の矢が立てられたのがJR北海道の所有していたC11-207であった。C11-207は2000年に動態復活したものの、新型ATSの設置難、JR北海道の経営難などが重なり2014年に運用から離脱したのだった。

 東武鉄道ではこれを借り受けて動態復活運転を行うこととし、次に牽引する客車の手配を行うことになった。ここで、手配されることになったのがJR四国が保有しており長らく休車となっていた高松運転所所属の12系および14系であった。これらは多度津工場にて再整備の上東武鉄道へ譲渡されることとなった。四国からの譲渡とあって船での輸送も考えられたのだが、譲渡輸送はJR貨物による甲種輸送で行われることになった。輸送に際して、牽引機として送り込まれたのは今年国鉄色に復刻されたばかりのEF65-2139であった。EF65が12系・14系を牽引する、まさにムーンライト高知・松山の再現ともいえる編成が実現することになり輸送前日からインターネット上では話題沸騰となっていた。ここでさらに事件が起こる。なんと寝台特急「瀬戸」を模したヘッドマークが装着されたのだ。記録的日照不足と報道され、あいにくの雨模様と予報されいたのだがこれだけの大ネタ、再びお目にかかれるとも思えず友人たちと撮影に出向いた。

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 やってきたのは醒ヶ井~近江長岡の撮影地。はじめはまた別の撮影地で撮る計画もあったのだが、信号線が新設されていたりと変化がありこちらに変更した。低い雲と時折強くなる雨に悩まされながら大勢のギャラリーの方々と通過を待った。朝の通勤客を乗せた列車が何本か通過した後、雨に濡れた線路をゆっくりとEF65-2139が客車たちを引き連れてやってきた。JR東海から電気機関車と客車がなくなって久しい中、東海管内を客車列車が甲種輸送とはいえ通過したことは特筆すべきことだろう。

Report No.57 新世界より

日本の鉄道は土地柄路盤の弱い路線が多く、高速化や大量輸送、大出力化の足かせとなってきた。

これが顕著に表れているのがディーゼル機関車の歴史である。欧米ではディーゼル機関車というと主流は所謂ディーゼル・エレクトリック方式と言われるものだ。ディーゼルエンジンで直接車輪を回すのではなくディーゼルエンジンで発電機を回し、発電した電力でモーターを回し駆動するという方法である。この方式ではエンジンを一番効率のよい回転数で定速稼働させられること、エンジンと違ってトルク特性の制御しやすい電気モーターを利用できる。これらより、後述する液体式などで必要となる液体式変速装置などを搭載する必要がないため、容易に大出力化が可能となる。しかし、反面、発電機を載せる必要があり、抵抗器などの制御器、モーターを積む必要かあるため重量増となることから、路盤の弱い日本では近年まであまり普及しなかった。
日本でもっぱら普及していたのは液体式と言われる形態で、いわば自動車でいうオートマチックトランスミッション車のような形態である。これは、エンジンからの出力は一度液体式変速装置を通って車輪に伝えられるという方式で、全体として部品を少なくし軽量化できるが、液体変速装置の損失や大出力化対応などが難しく機関車の出力向上が難しいという欠点があった。
国鉄ではDD50やDF50などのディーゼル・エレクトリック方式の機関車を運用していたが、路盤制限によって重量に対して出力が低くなってしまったため主流にはなりえなかった。そこでこれらに変わって開発されたのがDE10やDD51といった液体式ディーゼル機関車であった。以前出力は不足気味であったが、当時の技術レベルからすると液体式が実情にあっていた。
 
しかし、近年、半導体分野などの技術革新によってパワーエレクトロニクスが進歩しディーゼル・エレクトリック方式でも発電機や制御器を小型化軽量化できるようになった。また、大出力液体式変速装置の開発が国鉄末期を境に行われなくなったことから、DD51の置き換えとしてはディーゼル・エレクトリック方式のDF200が開発された。
2014年には北海道内のDD51の運用を全て置き換え、JR九州ななつ星の牽引機としても製造されたDF200の次なる活躍は愛知機関区になる。現在、北海道から転用改造を受けて転属してきたDF200-223が試運転を実施中であり、本格始動まではまだ幾分か猶予がありそうだ。去る2016/9/24、79レ~72レのダイヤを使用した試運転があり友人たちと連れたって撮影に出向いた。往路の79レの編成はDF200-223を先頭にDD51-1804とDD51-825の重連が死重としてつく編成で、復路72レはこれに加えてタキ14両がつく編成であった。

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 往路79レを朝日~富田のカーブで撮影したのち、近所のラーメンに舌鼓をうち、弥冨~永和の白鳥信号所の撮影地へと向かった。この日はあいにく時たま小雨の降る天気であったが、白鳥信号所は晴ならばむしろ前面が逆光気味となる撮影地なので好都合であった。大勢のギャラリーが見守る中、DF200とDD51三重連に牽かれた石油貨物が駆けのぼってきた。DF200には珍しく煙を高々と上げ、軽快に走り去っていった。新世界はもうすぐそこまで来ているようだ。

Report No.56 南国淑女

 国鉄特急を代表する顔として親しまれた485系だったが、今年に入って仙台支社のA1/A2編成が引退したことで原型顔が消滅し、残るはジョイフルトレインとして活躍する改造車たちのみとなった。

 485系は一時北は北海道から南は九州まで全国各地の電化路線と一部非電化路線で活躍したため、地域によってさまざまな形態のものが存在した。北海道仕様の1500番台などが有名どころであるが、九州仕様の485系も引けを取らず特異な形態であった。九州仕様の典型例ともいえたのが大分に所属していたDo32編成であった。小倉側先頭車クモハ485-5は中間電動車を先頭車化したもので通常と窓割り、およびドア位置などが異なっており、暖地のみを走るためシャッター式タイフォンカバーではなくスリット式タイフォンカバーを採用していた。他にも5両編成で運用されていた点や第2パンタが撤去されていた点など特筆すべきことの多い特徴的な編成であった。そしてDo32編成で忘れてはならないのは、先頭車側面部のJNRエンブレムであろう。Do32編成はもともと鹿児島に所属しておりKIRISHIMA EXPRESS塗装であったのだが、2010年8月に国鉄色に復刻され側面の国鉄エンブレムが復刻された。復刻後は鹿児島から大分へ転属、モハユニット2両を組み込み5両編成となって波動輸送で活躍を始めたのであった。

 臨時特急「にちりん」や宮崎での花火大会臨時などの波動輸送で活躍してきたDo32編成であったが、2015年10月18日、ついにラストランとして所属する大分車両所から小倉車両所へ廃車回送を兼ねたお別れ運転が行われた。このときは前日に宮崎までEF81-303が運用に入っていたこともあって一度宮崎まで友人たちと下っていたので、別府で宿を取り翌日Do32のラストランを日豊本線で撮影することにした。前日の夜は豊後豊岡~日出の撮影地に下見に行きすでに集まり始めたギャラリーの方々と場所の相談などをして一時撤収。そして18日早朝、硫黄の匂い漂う別府の街を後にし、撮影地へと向かった。通過までの間は同業の方々や友人たちと談笑し和気あいあいとセッティングを行い通過を待った。f:id:limited_exp:20160709170219j:plain

 雲一つない蒼穹のもと、485系の特徴的な警笛がこだました。踏切が鳴ったかと思うと横顔のJNRマークを朝日にキラリと輝かせながら特徴的な3灯ヘッドライトを光らせて南国の淑女は元気よく駆け上ってきた。最後の晴れ舞台とあって車体はなるべくきれいに磨かれ痛んだ塗装が少々手直しされていたのが印象的だった。

 実はこのとき少々トラブルもあり、友人には迷惑をかけてしまった。詳しくは触れないが今後に生かすべき反省点の一つであると自戒している。ちなみに、この遠征で宿泊した安宿は今にも屋根が抜けそうな半ば幽霊ホテルとでもいえるものであったのだが、どこか懐かしい雰囲気もあって、若き日の思い出として今では忘れられないものである。いささか乱文となってしまったが今回はここで筆を置くことにする。

 

Report No.55 我は海の子

我は海の子白浪の

さわぐいそべの松原に

煙たなびくとまやこそ

我がなつかしき住家なれ。

童謡、「われは海の子」の一番の歌詞である。この「われは海の子」で歌われている海がどこかというのはいまだに諸説あるようだが、松原と海、漁村と言った日本の海岸線の原風景ともいえるものを歌い上げた歌詞は多くの日本人の心象風景と合致するのではないだろうか。

 さて、亀山駅を起点に紀伊半島をぐるりとまわり、和歌山駅まで走る紀勢本線は、伊勢湾、熊野灘、太平洋、紀伊水道とほぼ全線にわたって海岸沿いを走る路線である。険しい紀伊山地のすそ野と海の間を縫うように走っており、車窓から時折見える海の眺望には素晴らしいものがある。

 かつては貨物列車や客車列車が闊歩していた紀勢本線も今や道路網の充実によって関西や中部方面からの直通特急列車以外は地域輸送主体の短編成電車・気動車輸送に切り替えられており、本線とは名乗るもののいわゆるローカル線となっている。JR西日本区間である新宮~和歌山間は電化されており、主に105系113系117系などが活躍している。近年では地域色塗装による単色化に伴ってこれら国鉄型車両はオーシャングリーンともいえる青緑色へ塗装変更された。この単色化は賛否両論あるものの、個人的に、この和歌山地区の青緑塗装は風景に溶け込むよい塗装であるように思う。

 2014年の和歌山ディスティネーションキャンペーンに伴って運転された 紀勢本線トワイライトエクスプレスを撮影する際、古座俯瞰へと立ち寄った。古座付近の海岸は砂浜というよりは岩肌が露出する荒々しい作りで、海岸に沿って切り立った山々が連なっている。古座俯瞰からはこれらを一望することができるが、その光景はまさに圧巻である。

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 トワイライトエクスプレスが通過するより前の日の出直後、朝日によって浮かび上がる海岸線を青緑に塗られた2両編成の 105系がトコトコと駆けてきた。青緑の車体はまさに我は海の子と言わんばかりであった。

 白波を立てる青い海を横目に海岸線を走り抜ける青緑の車両、そして背後の切り立った山々、そんな風景が今の紀勢本線である。