ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.106 野を越え、山越え、谷越えて

 いささかばかり欧州遠征の話が続いたので今回は国内での話を思い出して書いてみることにしよう。

 7月の中旬、知人からDD51牽引の35系新型客車の試運転が山口線でまた走るとの話を教えていただいた。これの前回のDD51牽引の試運転(Report No.100 復刻 - ぽっぽ屋備忘録)を既に撮影していたので、当初はあまり乗り気ではなかったのだが、運転日が近づくにつれて前回撮れなかった撮影地で撮ってみたくなった。山口線といえば、山間部を縫って走るため急勾配や谷間を抜けるルートの多い路線だ。その地形を生かして、SLやまぐち号の撮影地といえば山からの俯瞰が数多くある。特に船平山~津和野の付近には白井U俯瞰をはじめとしてかなりの高さからの有名俯瞰撮影地が点在している。前回編成写真をメインに撮影したこともあって、次こそは俯瞰で撮影をと考えていたのだが、これらの撮影地は基本的にSLやまぐち号の運転ダイヤで順光となるよう開拓された撮影地なので、使える場面が限られてくる。知人から聞いたダイヤを見てみると、前回よろしく運転は午前中がメインでお昼過ぎには新山口に帰着してしまうので、SLやまぐちで有名な俯瞰撮影地はどこも順光にならないことがわかった。仕方がないので他の撮影地がないかと探してると、どうやら長門峡駅付近に手ごろな俯瞰があるようだった。作例を見ていると編成もなんとか入りそうだった。そして気づけば運転日は2日後に迫っていた。

 大阪の友人と共に行くことを計画していると、九州に住む友人たちも参戦するとの報が入り、久々に知人、友人大集合ということで後は天気を祈るのみとなった。道中宝塚で知人を拾いつつ、高速をひた走り遥々山口へ向かった。山口について友人たちと情報交換したあと、おそらく俯瞰撮影地の最寄りの道路と思われる場所に向かい友人たちと3人でロケハンを始めた。藪をかきわけスズメバチにおびえながら朝6時前から撮影地を探し始めたにもかかわらず、一向にそれらしき場所に出ない。そうこうしているうちに通過時間も迫ってきていたので、最後の候補であった山を登ってだめなら長門峡の定番で撮影しようということになった。尾根をつたって急斜面を登っていくと途中から明らかに人の踏み入れた跡が現れた。これはこのままいけば・・・と進んでいくと先を歩いていた友人から「あった!ここだ!」との歓声の声。少し足を早めて登っていくと山腹の木がいくつか切り倒されていて線路をすかっと見渡すことができた。通過まであと少しだったのでいそいそと汗を拭きつつ設営。f:id:limited_exp:20170903024046j:plain

 普通列車が行ったあと少ししてDD51-1043に牽引されて35系客車がやってきた。少しかすれぎみの汽笛を鳴らして試運転列車は津和野へ向けて走り去っていった。晴れのもと撮影できたこと、そして眼下の景色と汗をかいただけの報酬は得ることができた。このあとは友人たちとも大満足で下山し津和野でひと風呂浴びて復路撮影に向かったのだった。遠方の友人たちとも交流でき実に実りある遠征だった。

Report No.105 ニーベルンゲンの宝

 ライン川の底にはニーベルンゲンの宝が沈んでいる、そんな伝説がドイツにある。ニーベルンゲンの宝とは、13世紀ごろにドイツで書かれた叙事詩ニーベルンゲンの歌』に登場するもので、勇者ジークフリートが小人のニーベルンゲン族を制服したときに得た財宝とされる。ニーベルンゲンの歌ジークフリートとその妻クリームヒルトを中心人物として引き起こされる復讐の悲劇なのだが、この作中で、クリームヒルトの復讐相手の一人であるハゲネは宝がクリームヒルトへ渡ることのないようライン川の底に沈めてしまい、その後も口を割らず討ち死にする。話はこのほかにも続いていくのだがここでは割愛する。

 さて、この『ニーベルンゲンの歌』を題材の一つとして後にかの有名なワーグナーが1869年に作曲した楽劇『ラインの黄金』、ドイツ語原題:Das Rheingold(ダス・ラインゴルト)がある。ラインゴルトという名前は、1928年に長距離列車の名前として採用されることになる。ラインゴルトはオランダのフーク・ファン・ホラントとスイスのバーゼルを結ぶ列車としてライン川に沿って運行されたことから、前述の楽劇にあやかって名付けられた。第二次世界大戦中の運行中断をはさみつつ、戦後はTEE(Trans Europ Express)列車に昇格するなどして1987年まで運行が続けられた。時代によって客車の塗装は2種類あり、1962年まではクリーム地に青の腰帯のミトローパ塗装が採用されており、1962年からはTEE標準のクリーム地に赤の腰帯の塗装になっていた。現在ドイツでは青、赤両方のラインゴルト客車が動態保存されており、不定期ながら保存運転が続けられている。

 西欧遠征中の去る2017年9月16日、ケルン鉄道友の会主催で青のラインゴルト編成が運転されるとのことでVSOE(Report No.104 走る舞台 - ぽっぽ屋備忘録)撮影の興奮醒めぬ中、スイスから国際列車に飛び乗ってドイツへ舞い戻った。この日は夜行ICEで夜を明かし、早朝の普通列車でWeinheim-Lützelsachsen駅に行き、駅近くの撮影地に陣を張った。友の会の広報サイトの情報によれば編成は10両編成で牽引機関車は、ラインゴルト塗装(厳密には私鉄売却機関車であるのでロゴなどが異なる)の110型383号機。天気は晴れ、あとは定刻で経路変更なく来ることを祈るのみである。

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 貨物などのバイパス路線であるので時たまやってくる長編成の貨物がかぶらないことを祈りながら通過を待った。光線がちょうど前面2/3ほどに回るようになった10時半過ぎ、快晴のもと、ラインゴルトがやってきた。保存車両と言えど良い状態に保たれており、現役時代顔負けの速度で駆け抜けていった。

 これでこの日の撮影は終わり・・・・と、当初は思っていたのだがこの後更なるネタが続くことになる。その話はまた後日としよう。

Report No.104 走る舞台

 オリエント急行といえば、アガサ・クリスティーの名作推理小説オリエント急行の殺人」など数々の文学作品、映画の舞台にもなった鉄道ファンならずとも多くの人が知っている列車だ。オリエントはもともとラテン語で東方、東洋を指す言葉で、転じてヨーロッパから見た中近東あたりを指す言葉として後に定着した。西欧から一番近い東洋、それはトルコ・イスタンブールであり、フランス・パリとイスタンブールを結ぶ寝台列車に端を発した列車の一群をオリエント急行と呼ぶようになった。最盛期にはパリのほかにミュンヘンストックホルムといったヨーロッパの主要都市などを起点としてギリシャルーマニアクロアチアスロベニアなどへ多くの列車が運行されていた。これだけならば、単なる広範囲国際列車でしかないのだが、オリエント急行オリエント急行たらしめた最大の特徴はその客車にあった。高貴な深い青を基調に金色の装飾をあしらった外観、コンパートメント式客室、貴賓室のような内装、食堂車の連結といった豪華寝台列車と名乗るにふさわしい客車、編成を採用したことが後にオリエント急行を豪華寝台列車の代名詞にまで昇華させたといってもいいだろう。

 オリエント急行は2度の世界大戦による運行休止を挟みながらも、近年まで運行が続けられていたが、第二次世界大戦後は冷戦による東西分断、モータリゼーションの進行、航空機の大衆化などが相まって徐々に運行区間の短縮、運行系統の廃止などが進み1977年にはパリ-イスタンブール系統が廃止、2008年パリ-ウィーン系統の廃止を最後に寝台列車としての役目に終止符を打った。

 だが、現在もオリエント急行の名を冠する列車がいくつか運行されている。その一つがVenice Simplon Orient Express、VSOEの略称で知られる観光寝台列車だ。オリエント急行の生みの親、「国際寝台車会社(ワゴン・リ社)」によって1920年代に製造された寝台客車を中心に、プルマン社によって同じく1920年代に製造された食堂車などを連結した豪華17両編成でフランス・カレー~イタリア・ヴェネチア間を主なルートとしてその他ヨーロッパ各地、そしてイスタンブールなどのルートで運行されている。

 長々とした前置きであったが、今月弊ブログの更新が止まっていたのには理由がある。このVSOE、およびその他ドイツ・スイス周辺の鉄道を撮影するべく中央ヨーロッパへと飛んでいたからだ。9月15日、かの有名な鉄道の難所、スイスのゴッタルド峠の有名撮影地、Wassenにてヴェネチア行きVSOEを迎えうった。この日は早朝からスカっ晴れ。高原の朝の冷たい空気の中ホテルを後にして15分ほどかけて山腹を撮影地に向けて登った。撮影地に着いたときは、通過1時間前でまだ切り位置は山影の中、本当にこの後山影が抜けるのか疑いながら通過を待つ。実は昨年にこの区間をバイパスするゴッタルドベーストンネルが完成しておりもうこの区間はメインルートではないのでたまにやってくる普通電車と回送、観光列車、少しの貨物列車を除けばほとんど列車が来ることはない。

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 2本ほど普通電車が行ったあと、定刻より少し遅れて主役が登場となった。このWassenでは線路は2段つづら折り状態になって勾配を克服しており、ヴェネチア方面へ向かう列車はつづら折りを順々に登って撮影地までやってくる。つづら折りの一番下にその特徴的な車体が見えてから少したって2段目、大きく編成をくねらせながら撮影地奥の山に吸い込まれていく。最下段を通過してから5分強、スイス連邦鉄道Re420型電気機関車重連牽引で走る舞台は峠を越えてやってきた。 

Report No.103 九頭竜川

 鉄道のダイヤグラムでは列車一つずつに列車番号と呼ばれる管理番号が振られていおり、JRの場合、それぞれの列車は1~9999までのいずれか数字で表される。付番方法には規則があり、特に6000、7000、8000、9000番代は所謂臨時列車のための列車番号である。6000~8000番代は季節臨時や予定臨時と呼ばれる列車のための番号であり、あらかじめダイヤを設定しておき、必要に応じてそれを利用して列車を運行する。9000番台は、というと、完全な臨時列車であることが多い。レールやバラストを輸送する所謂工事臨時列車、工臨もこの9000番台の列車であることが多い。なぜなら、輸送する起点は毎回同じかもしれないが、レールの交換場所、バラストの取り換えが必要な場所は毎回異なるわけで、現場での作業時刻に合わせるためには固定のダイヤで運転するわけにはいかないからだ。ただ、毎回別々のダイヤを用意するのは運行間隔や待避の関係などから面倒であるので、ある程度パターン化されている。

 さて、今回も毎度おなじみの金沢方面へのロングレール工臨が7月26日に運転されると聞いて撮影に出向くことにした。この日のダイヤは福井近郊を17時過ぎに通過するものであった。時期柄、まだ太陽は少し北西に沈むので福井~森田間にある九頭竜川橋梁へ向かった。ついてみると怪しい雲が垂れこめており些か負け戦の雰囲気を醸し出していた。だが捨てる神あれば拾う神ありとはまさにこのことだろうか、通過時刻が近づくにつれて一度曇っていたものが気付けば雲は遥か彼方へ去っていた。

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 鋭い夏の夕日の中、DD51がロンチキと共にやってきた。2機のDML61Zの咆哮と重々しいジョイント音を奏でて縁の下の力持ちは金沢へ向かって行った。去就が噂されるDD51だが、最近では1191号機にクーラーが取り付けられ、かつてSG室窓であったところが埋められるなど外観の変化が生じ始めている。クーラー取り付けということもあって、もうしばらく活躍は拝めそうだが、原型に近い姿を記録するならば今のうちなのかもしれない。

Report No.102 おわら風

 お盆というと、京都五山送り火に代表されるように全国で祭りや慰霊行事が多数催される。お盆行事の多くは8月15日を中心に前後数日に集中して行われるが、中には盆と名はついているものの、これ以外の期間で開催されるものもある。その一つが富山県の八尾地区で催される「おわら風の盆」だ。風の盆とはいうものの、名前の由来についてはっきりとしたことはわかっていないそうだ。さて、このおわら風の盆、8月20日から9月3日までの比較的長期間開催され、開催時期にはJRなどでも臨時列車が増発される。

 かつてであれば、キハ181やキハ65エーデル・シュプールを使用した臨時特急などが運転されており、撮り鉄的なネタに事欠かなかった。だが、今ではサンダーバードの富山乗り入れすらなくなり、キハ181、キハ65などの引退もあり年々寂しくなっていくばかりだ。そんな中、団体ツアー限定ではあるものの、おわら臨として期間中数回、サロンカーなにわを使用した列車が設定されることがある。これには敦賀以北への運転となるため、敦賀所属のEF81がその牽引にあたることになる。日本海およびトワイライトエクスプレスなき今、トワイライトエクスプレス色EF81の数少ない運用場面というわけでファンとしては見逃せない運用だ。

 2016年9月3日、旅行会社の企画ツアーでサロンカーなにわ7両フル編成での金沢までの「おわら臨」が運転されることになり、撮影に出向いた。北陸新幹線開業で金沢以北が第3セクター化されたことで、金沢以北への乗り入れがなくなってしまったのはいささか残念だが、老兵EF81の花形運用を撮れることは喜ぶべきなのだろう。

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 この日は山崎のサントリーカーブへ出向いたのだが、空模様は通過時刻が近づくにつれ下り坂。時折雨がパラつく有様だった。あいにくの曇天の中、EF81-113に率いられてサロンカーなにわがやってきた。サロンカーなにわの純正ヘッドマークの柄をアレンジしたおわら特製ヘッドマークはなかなかかっこよいものだった。

 今年も同じようなサロンカーなにわ使用の北陸方面への団体臨時がいくつか企画されているので、今年こそ晴れでいただきたいものだ。

Report No.101 天高く馬肥ゆる秋

 一口に「団体臨時列車」と言ってもその内容は様々である。旅行会社のツアー企画であったり、結婚披露宴を兼ねたブライダルトレインであったり、企業や学校の部活動の遠征や節目の記念ツアーであったり、はたまた修学旅行であったりと、その内容は実に多岐にわたる。

 かつては、団体臨時列車というと普通の車両のほかにジョイフルトレインと呼ばれた団体列車用車両たちが頻繁に運用されていた。国鉄末期に14系客車を改造したサロンエクスプレス東京を皮切りに客車を中心として気動車や電車、さまざまな車両が改造されジョイフルトレインとなった。JR化後は主に電車や気動車が改造の対象となり、客車ジョイフルトレインを置き換えるなどした。国鉄時代に改造されたジョイフルトレインの多くは老朽化に伴ってその多くが今では引退したが、まだ少数が活躍を続けている。そのうちの一つが大サロの名で親しまれる14系欧風客車「サロンカーなにわ」である。つい先日には7両すべてが網干車両所で全般検査を受け出場しており、しばらくの間はまだ活躍が拝めそうである。

 さて、天高く馬肥ゆる秋とはよく言ったもので、秋となると空が格段に青みを増してくる。そして青さが増すと同時に写欲も増してくるのは撮り鉄のサガだろうか。2013年の9月28日、ワケあって徹夜していて朝方何気なくネットを見ていると何やらサロンカーなにわフル編成が中央大学鉄道研究会主催で運行されるらしいとの情報をキャッチ。今ならまだ淀川橋梁での撮影に間に合うと踏んで、急きょ友人に電話するもあいにくの就寝中。仕方がないのでそのまま単身大阪へ向かった。天気はところどころ薄い雲がある秋晴れ。光線はまだ低めで雲にはかかっていなかった。淀川橋梁は欄干があるのでかぶりついて撮るのは気が進まず、せっかくなので秋空を入れて川辺から広角で撮ることに。

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 素晴らしい光線の元、青いPFに牽かれて7両フル編成のサロンカーなにわがやってきた。聞くところによれば、これは中央大学鉄道研究会設立50周年記念で企画されたものだったそうだ。歴史ある部ともなればこういった大掛かりなこともできるのだと感心した。

Report No.100 復刻

 SLやまぐち号には永らく、12系客車を改造したレトロ調車両が用いられてきた。しかし、使用されている12系は、最も新しいものでも1971年製であり車齢は46年を超えている。車齢46年ともなれば、経年による老朽化は深刻で、近々置換計画が持ち上がるのではないかと常々言われていた。2015年3月30日、ついにその置換計画が発表された。置換計画には「旧型客車を復刻した客車を新製投入する」とあり、「新型旧型客車」なる不可思議な言葉がファンの間でささやかれるようになった。発表から丸2年と少しが過ぎた2017年6月、ついにその「新型旧型客車」が新潟トランシスから出場した。新型旧型客車の形式は35系とされ、かつての国鉄オハ35系のオマージュになっていた。最近のJR西日本の車両と同様のクーラーを搭載していたり、ボルスタレス台車を履いていたりするものの、ぱっと見は旧型客車にしか見えない仕上がりになっており、平成の時代にとんでもないものが誕生したのだと実感した。

 無論、新型車両であるので、走行する線区を中心に試運転が行われることは明白であり、山口線で試運転ともなれば下関に所属するDD51-1043が牽引することになるのではないかと期待していた。DD51-1043はJR西日本に所属するDD51のうち唯一の中期型の機関車である。一番の特徴は側面のラジエーターカバーが3分割メッシュになっていることなのだが、実は1エンド側前面にも特徴がある。中期型は通常、解放テコのとりまわしが前面手すり内側(車体側)になっているのだが、1043号機は1エンドの非公式側手すりが後期型のものに変更されており、車体左右で解放テコの取り回しが異なっている。他にも最近ではテールライトがクリアテールに変更されたこともあり、現存するDD51の中でもかなり異質な機関車になっている。

 そんなDD51-1043による35系試運転の予想は的中。知人から6月26日にDD51-1043牽引で山口線試運転が行われるとの情報を得て、友人たちと一路西へ下った。当日の予報はあいにくの曇り。だが、山口線のSLやまぐちで有名な撮影地の多くは逆光であるので、この際少しくらい曇りのほうが都合がよかった。まず最初に陣を張ったのは宮野~仁保の大山路踏切。早朝から多くのファンが詰めかける中、知人や友人たちと和気藹々と談笑しながら通過を待った。

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 晴れると逆光のこの撮影地、今日ばかりは曇り空がありがたかった。少ししわがれたような哀愁漂う警笛を鳴らしながらDD51-1043に率いられて35系新型旧型客車がやってきた。クーラーを目立たないように撮ってみると本当に国鉄時代にタイムスリップしたような不思議な感覚になった。

 大山路で撮影後はすぐに撤収、次の撮影地に急いだ。あまり停車のないダイヤでの運行だったので当初は徳佐周辺まで行って撮る予定だったのだが、どうやら撤収が早かったこともあって長門峡手前で追い抜くことができた。長門峡周辺は突如として青空が一部広がっており、晴れならば順光になる長門峡へ行くしかないと即断、急きょ予定変更し鉄橋の撮影地へ。

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 いかにも梅雨といったところの湿っぽい晴れ間を縫って旧型客車列車がやってきた。クーラーが屋根に対して1段低く設置されていることもあってか側面気味に撮ってもさほど目立たずなかなかサマになっている。機関車次位がダブルルーフ風展望車というのもこれまたかっこよさを演出してくれている。この後も津和野方面まで追走し、返却も撮影したのだが、運よく晴れた長門峡のカットが一番感慨深かった。