ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.136 箱庭

 夏によく聞かれる定番の質問といえば「行くべきは海か山か」ではないだろうか。海にも山にもそれぞれの魅力がありなかなか決めることのできない難問だ。鉄道写真でも海を背景にするか山を背景にするか、というのは定番の議題だろう。昨年の山陰本線迂回貨物でもこれは大きな議題の一つだった。だが山陰本線のよいところは、海も山も背景にできる撮影地が数多く存在していることだ。そのうちの一つ、五十猛~仁万の俯瞰でのカットは山陰迂回貨物でぜひとも押さえたいものの一つだった。遠景に島根半島の山々を望み、手前には白い砂浜と緑の築堤と、さながら鉄道模型ジオラマのような”箱庭”情景をDD51が牽引する貨物列車が走るわけなのだからファンとしては垂涎の情景である。

 五十猛~仁万で撮影するチャンスは意外と早く訪れた。運転が開始された4日後の9月2日、友人が有給をとって山陰迂回に行くということでこれに便乗させて山陰へ向かった。1発目を日原俯瞰で”山”を主題におさえていたので2発目は満を持しての五十猛での撮影となった。五十猛の撮影に着くと既に鈴なりの人出で立ち位置を見つけるにも一苦労のあり様だった。なんとか最上段付近で場所を確保し照り付ける夏の太陽を浴びながら小一時間列車を待つ。待っている間にもどんどんとギャラリーは増え、ついには撮影地背後の木に登って撮るギャラリーまで現れ始めるほどで、この迂回貨物の注目度を如実に表していた。

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 この日は上りが少々遅れていたこともあり、交換の都合で下りにも遅れが波及していた。定刻より少し遅れて、快晴の下、赤いDD51につれられてコンテナ貨物が軽やかにフレームに滑り込んできた。夏の白波を横目に山を望みながら走りゆくその姿を何度を肉眼に焼き付けながらシャッターを押した。

Report No.135 歴史街道

 第一次世界大戦終結オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体されるまでスロベニアオーストリア領であった。オーストリア=ハンガリー帝国がスロベニアを支配する中、1869年、スエズ運河が開通し地中海沿岸の港の地位は大きく向上した。当時帝国は現在のイタリア・トリエステ港を領地としており、既にウィーンとトリエステを結ぶ鉄道が開通していたが、スエズ運河開通によって更なる物流量の増加が予測された。このため、トリエステオーストリアを結ぶ第2の鉄道路線を建設することになった。そして1906年に開通したのが、スロベニアのイェセニツェ(Jesenice)からジュリア・アルプスを抜けイゾンツォ川(Isonzo)を抜けてゴリツァ(Gorica)を経由しトリエステへと至るボーヒン鉄道(Bohinj Railway)である。山々の緑に囲まれる車窓、ジュリア・アルプスを貫く全長6.3kmのトンネルやイゾンツォ川を超える大アーチ橋のソルカン橋梁など風光明媚な路線である。今でこそ数往復の貨物列車を除けば1両や2両の気動車が3時間に1本程度行きかうローカル線であるが第一次世界大戦では激戦地となったイゾンツォ川周辺への兵站輸送などで活躍した歴史の生き証人ともいえる路線である。

 このボーヒン鉄道では、夏季にスロベニア鉄道博物館が所有する蒸気機関車と旧型客車を用いて観光客向けの動態保存列車が走っている。昨年夏の欧州遠征では偶然にもちょうどよい具合でこの運転があることがわかっていたのでコペル(Koper)周辺での撮影の翌日、これを撮るためモスト・ナ・ソチ(Most na Soči)に宿を取り一日蒸気を追いかけることとした。モスト・ナ・ソチはイゾンツォ川とイドリカ川、バチャ川の3つが合流する急峻な谷間の街で、第一次大戦中は激戦地となった場所にほど近い場所である。

 この動態保存運転で使用される機関車は、第二次大戦中、ナチスドイツ占領下で導入された戦時機関車として有名なドイツ国鉄52形の同型機JŽ33(現SŽ33)、ユーゴスラビア王国時代に導入されたJDŽ06、オーストリア=ハンガリー帝国時代に導入されたSŽ25の三機のいずれかで、客車は2軸客車を主とする編成というなかなか豪華なものである。

 牽引機がなにかは公式で発表がないので完全に運任せなのだが、せっかくなら日本でお目にかかることができないE級機であるJŽ33牽引であることを祈りつつ運転日当日は少し早めに宿を後にし、まずは宿すぐのモスト・ナ・ソチ橋梁を俯瞰するポイントへ向かった。モスト・ナ・ソチ橋梁はイドリカ川とバチャ川の合流点の上を渡るレンガアーチ橋とトラス橋が組み合わさった橋梁である。

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 朝露に濡れた斜面を登って待つこと2時間。定刻より少し遅れてSŽ33が逆機で古典客車たちを引き連れて橋梁の上に現れた。橋を渡ってすぐのモスト・ナ・ソチ駅で停車し撮影タイムが取られるため減速しつつ通過。迫りくる急峻な山々をぬってレンガアーチを渡ってくる蒸気機関車牽引の客車列車、なんと豪華な光景だろうか。モスト・ナ・ソチ駅での撮影タイムに少し便乗した後は車を走らせて次なる撮影地、ソルカン(Solkan)橋梁へ。

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 ソルカン橋梁は、第一次世界大戦時、オーストリア帝国軍の撤退時に川を渡るアーチ部が爆破され、のちに復旧された経緯を持つ橋梁である。これを峠道のパーキングエリアから俯瞰するポイントで列車を迎え撃った。第一次世界大戦の生き証人たる橋梁の上を第二次大戦期を代表する機関車であるドイツ国鉄52形の姉妹機が牽引する列車が走るというなんとも歴史の重みを感じる光景に夢中でシャッターを切った。

 この後は3日間のスロベニアでの撮影でお世話になったレンタカーを返却し、普通列車にのって復路の撮影へと向かうことにしていた。返却地のレンタカー店から駅までが少々距離があったのだが、レンタカー店の店員に交渉すると快く駅まで送迎してくれた。送迎代がわりに少しチップを弾んで店員と別れたあとは、ノヴァ・ゴリツァ(Nova Gorica)駅で復路まで停車中の蒸気列車をスナップ。

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 宮殿のような駅舎を前に古典客車たちが止まっているのを見ているとあたかも戦間期にタイムスリップしてしまったかのような感覚になった。かつて第二次大戦中、このノヴァ・ゴリツァ駅はクロアチアにあったナチス強制収容所へのユダヤ人や囚人の輸送の要衝でもあった駅である。ここにドイツ戦時型機関車52形姉妹機率いる列車が止まっているという姿は些か考えさせられるものがあった。

 さて、この復路に先行する列車で向かったのはアーウチェ(Avče)駅近くのイゾンツォ川のダム湖沿いの撮影地。ここも他同様のレンガアーチ橋がかかる場所なのだが、この橋梁はダム湖の縁をかすめて通る所謂「渡らずの橋」で、ダム湖に反射する姿が美しい撮影地である。午前の撮影とはうって変わって快晴の中、幾人かのギャラリーがいるだろうと思いつつ撮影地へ向かったのだが、予想に反してギャラリーはゼロ。同行の友人たちとそれぞれ思い思いのアングルを確保して列車を待った。

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 太陽がだいぶ西に傾きだしたころ、山間にドラフト音と軽やかなジョイント音が聞こえてきた。そしてつかの間、大陸の大型蒸気らしい薄目の煙を吐きながら蒸気列車が絶景の舞台の上に現れた。大型E級蒸気と色とりどりの客車、苔むすレンガアーチ橋、絵画のようなその情景はまさにシャッターを切っていることすら忘れる絶景だった。

Report No.134 渓谷の朝

 山口線山口線たる名所といえばどこだろうか。そんなことを山陰迂回貨物の運転が始まる直前あたりから考え始めた。津和野以南のベタなところで言えば、津和野の太鼓谷稲成や長門峡の鉄橋あたりだろうか。だが今回の迂回貨物の運転ダイヤを見ていると上りに関してはどうも津和野以南ではなかなか露出が厳しく、徳佐からやっと太陽光線が当たるか、というような状況であった。では津和野以北ならどこが山口線らしいだろうか、ということでかつての岡見貨物の作例をしらみつぶしに調べていった。津和野以北の岡見貨物の撮影地といえば本俣賀のストレートと日原の鉄橋周辺が二大撮影地といえるわけだが、どちらも岡見貨物廃止後はこれといって珍しい被写体が走ったわけでもないためほぼ作例がない状況だった。とりあえずこれは一度行ってみて考えるしかないということで運転開始日に下り貨物を撮影する傍ら車から沿線風景を眺めていたのだがどうにも線路際は荒れ放題のところが多く、本俣賀は望み薄だろうという結論に至った。残るは日原鉄橋の俯瞰ということで撮れるかどうかは不明だが上り貨物運転開始後、アタックしてみることにした。

 日原の俯瞰撮影地のだいたいのめぼしはついていたのだが、アクセスは航空写真からうっすら見える轍のみしかわからず手さぐりに近い状態での登山となった。早朝からいい汗をかきつつ山を登った先でぱっと眺望が開けた。蜘蛛の巣まみれになってはしまったがどうにかこうにか正しい場所にたどり着くことができた。これが違う場所だったらと思うと悲惨だが終わり良ければ総て良しとはよく言ったものだ。キハ40の普通列車などを撮りつつ構図を組む。気付けばいつの間にか15人ほどのギャラリーが集まっていた。皆が今か今かと貨物の通過を待ったのだが通過予想時刻を過ぎても来ない。よく考えると交換するはずの普通列車も来ていない。どうやら山口線内での濃霧の影響で遅れが出ているということのようだった。

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遅れること約20分、聞きなれたDD51のエンジン音が山間にこだまし始めた。機関車+コンテナ車6両という短い組成だが再びここで貨物を撮れるということを誰が予想しただろうか。ゆっくりと鉄橋を渡る列車に夢中でシャッターを切った。

Report No.133 カルストの崖

 地理の授業を受けたことがる方でなくとも「カルスト地形」という名称を一度は聞いたことがある方は多いかと思う。カルスト地形の「カルスト」という名の由来はスロベニア西南部およびイタリア北東部のクラス地方が語源である。というよりも、そもそもこのカルスト地形というのはこのクラス地方で見られる石灰岩質の地形から生まれた地理用語なのである。石灰岩は風化こそしにくいが雨水によって浸食されるため石灰岩質の土地では浸食によって陥没地や崖、鍾乳洞など様々な地形を生まれる。それらこそがカルスト地形なのである。さてこのカルスト、クラス地方、ずばり今回の欧州遠征で訪問したPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間もその一部なのである。前回および前々回(Report No.132 ブリジット - ぽっぽ屋備忘録 Report No.131 断崖絶壁の生命線 - ぽっぽ屋備忘録)でお伝えしたこれら急峻な地形は石灰岩が大きな要因となっているのである。

さて、今回はReport No.132の続き、この峠区間での撮影のフィナーレとなるレポートである。この日は午後を通してアドリア海側は突き抜けるような青空で太陽光線が痛いほどだった。午前中から午後にかけて少なくとも5機のゲンコツことSŽ363がKoper港へと下っていたが再び峠を登ってきたのは2両のみであった。SŽ363は首都リュブリャナに配置されている機関車でありKoperに下ったからには帰ってこなくてはならない。そこで、晴れが続いていることもあり、撮影を続行することになった。かなり日が西に傾いてきたこともあり、順光であるČrnotiče駅近くの崖下S字俯瞰へと向かった。林道を抜けて崖っぷちへたどり着いてセッティング。下り列車が何本か通過したが一向にのぼり列車がやってこない。まだまだ日が落ちるわけでないのはわかっているがあまり太陽が西に傾きすぎると自分たちが陣を張っている崖の影が線路へ落ちてしまう。伸びてくる影におびえながら待っていると麓からもはや聞きなれた重低音が響いてきた。はるか眼下の林の隙間に目を凝らすとゲンコツがコンテナ貨物を率いているのが見えた。

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 それから10分近くたっただろうか。夕日に赤く染まった石灰岩の崖のすそを縫うように走るコンテナ貨物。茜色に染まったゲンコツがその鼻っつらを浮かび上がらせながら先頭を務める。この区間での撮影を締めくくるにふさわしい感嘆のため息が止まらない1コマとなった。

Report No.132 ブリジット

   友達や知り合いを「あだ名」で呼んだことがある人は多いかと思う。船や飛行機、鉄道車両もまた愛着やはたまた侮蔑をこめて愛称やあだ名がつけられることがしばしばある。国内で有名な例で言えば、キハ81がブルドッグ419系が食パンと呼ばれていたことなどがあげられるだろうか。こういったことは海外でも同じで、ヨーロッパでシーメンス製ユーロスプリンターシリーズのES64U2型機関車がタウルスという愛称で呼ばれている例などがある。

 さてさて、少し前置きが長くなってしまったが、スロベニアに「ブリジット」という愛称で呼ばれている機関車がいる。スロベニア鉄道363形(SŽ363)である。由来となったのは1950~1960年代にかけて名をはせたフランス人女優、ブリジット・バルドー。なぜこの愛称がついたかといえば、この機関車がフランス国鉄CC6500形を原設計とするフランス・アルストム製の輸入機関車だからである。原型となったCC6500はCC40100の系譜の”潰れた鼻”、日本ではゲンコツと呼ばれた前面デザインを持つ機関車であり、363形もこのデザインを受け継いでいる。1975~1977年に39両が当時まだユーゴスラビアであったスロベニアに導入されその後全車がスロベニアの独立にともないスロベニア鉄道へと移籍し、現在も全車が活躍を続けている。

 さて、今回は前回のレポート(Report No.131 断崖絶壁の生命線 - ぽっぽ屋備忘録)の続きである。前日、Prešnica–Koper線で撮影したあと地元スーパーへ行き夜食と朝食を買い込んでČrnotiče駅横でレンタカー車中泊といこうとしていたのだが、駅へ戻って夕食をしていると地元の警察官がやってきて、君たちここで何をしているんだね、どこへ泊まるんだ、ともしもしされてしまった。なんだかそういえば渡航前に調べていた時にスロベニアは指定地以外野宿禁止というのを見た気もする。仕方がないのでその場はなんとか適当にやり過ごし近隣の高速道路のPAで夜を明かすことにしたのだった。

 翌日、少し早めにPAを後にし、早朝順光となる撮影地へ向かったのだがどうも様子がおかしい。撮影地に入る道にトレーラーやキャンピングカーが大量に止まっていて道をふさいでいる。仕方がないので少し離れた別の場所からアプローチしようとしたのだが、ずいぶんと遠いうえ朝露でビショ濡れになってしまった。そしてこともあろうに天気は振るわない曇天。ひとまず訳がわからないので元の道に戻ってキャンピングカーから出てきた中年男性に話を聞くとどうやらこの集団は映画の撮影隊らしくここの先で撮影をするので今日はここには入れないといわれてしまった。残念だが天気も天気なので今回はここでの撮影をあきらめて2つ目の撮影地に向かった。ところがどうやらアクセスの道を間違えたらしくどう見ても道とは名ばかりの川底のようなゴツゴツとした岩ばかりの荒道に出てしまったため車を一旦止めて朝食をとって作戦を練り直すことにした。ひとまず撮影までそう遠くないと踏んで車は現在地に駐車しておき山を下って撮影地に向かったのだがこれが大きな失敗だった。川底のような、とはまだマシな表現で正直ガケが斜めになっているだけのような山道を延々30分ほど歩いてようやく撮影地へとたどり着いたのだった。だがいかんせんこれでは撤収に時間がかかりすぎる。天気もまだ悪いのでとりあえずセッティングだけして車を別の道から近くまで回すことにした。しかし、泣きっ面に蜂とはよく言ったものでこれもまた失敗。30分かけて車に戻って友人の運転でう回路を進んだのだが、一応車は通れるが一歩間違えば岩に乗り上げて亀になってしまうような道でこれまた撮影地に戻るだけで一苦労であった。なんとか撮影地まで戻ってくると天候は回復してきていた。労力が報われただけでもヨシとすべきか。

 今回この峠区間にやってきたのは単にここの風景が撮りたかっただけではなく、ゲンコツを撮るためだった。前日はゲンコツは運用に入っていたものの先頭でくることがなく会えなく撃沈していたため今日こそはと天に祈り列車を待った。

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その後しばらくして明らかに最近の機関車の音ではない重低音が峠にこだました。トンネルから出てきたのはゲンコツSŽ363牽引の新車輸送貨物だ!この車載貨物車輛、2両1ユニットになってるのがまた面白い。ついにゲンコツ先頭の列車を撮れた。

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天候がかなり回復してきたので峠の奥に見えるイタリア・トリエステの街をいれる構図に組みなおして待っていると、次に峠を下ってきたのはまたまたゲンコツ牽引のホッパ車とタンク車からなる混成貨物。調べたところによればこのホッパ車は鉄鉱石等の鉱石類を運ぶために使用されているようだ。この写真の中央奥が前日撮影していた場所であることを考えていただければこの路線の勾配の険しさがわかるだろうか。

 午後になる前に一度撤収しスーパーへ向かい、チーズと生ハム、パン、ジュースを買い込んで撮影地近くの教会でピクニックをして午後の撮影に備えた。午後は俯瞰ポイントからほど近い逆S字のポイントへ。

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 イバラと草をかき分けて線路脇の石灰岩切通に構えて列車をまつ。朝の曇天が嘘のように晴れ渡り、突き抜ける青空にうかぶ太陽からさんさんと降り注ぐ日光が肌に刺すほどだ。そんな天気の中、またあの朝から何度か聞いた重低音が唸り響いてきた。ペプーポープッという独特の警笛を1回、ゲンコツ牽引の混成貨物が下ってきた。貨車の内側が黒いことからして編成の先頭は石炭ホッパ車だろうか。線路にかぶりついて撮るとオデコの台形ヘッドライトがよくわかってなんともカッコイイ。

 快晴が続いたため、この後も日没ギリギリまで撮影を続行することになった。そして上々の撮影成果の中、次の撮影地へとコマをすすめたのだった。

Report No.131 断崖絶壁の生命線

 バルカン半島の付け根の西側、イタリアの隣にスロベニアという国がある。似た国名にスロバキアがあるがそれとはまた別の国である。総人口約200万人、面積20273㎞という小国だが、北はオーストリア、東はハンガリー、南はクロアチア、西はイタリアに囲まれ、アルプスと地中海のどちらの側面も併せ持つ”ヨーロッパの箱庭”のような美しい国である。だが果たしていくらの日本人がスロベニアを知っているだろうか。この小国が知られていない理由は小国であるが故だけではなく、単体の国としては比較的新しい国であることもかかわっているのだろう。スロベニアは27年前まで所謂「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と日本で呼ばれていた地域である(当時はスロベニア民共和国としてユーゴスラビアの一部であった)。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が記憶に新しい方も多いかと思うが、これを前に1991年の十日間戦争によってユーゴスラビア連邦から独立している。その以前の近世で言えば、1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、1918年から1941年まではユーゴスラビア王国の構成地域であり、1941年から1945年まではナチス・ドイツ、イタリア、クロアチアハンガリーに占領または分割統治されていた。激動の近世を物語る地域であり、「スロベニア」という名が入れ替わり立ちかわる支配者たちによって埋もれてしまったのである。

 第二次世界大戦終結した際、イタリアとユーゴスラビアの間で港湾都市トリエステ周辺を巡って領土問題が発生した。冷戦黎明期の中、イタリアは西側でありユーゴスラビアは東側であったため冷戦の最前線となったのである。一旦は問題を棚上げし国連管理下でトリエステ自由地域として米英とユーゴスラビアによってトリエステは南北に分割されそれぞれ統治されることになった。そして1954年に北半分はイタリアへ帰属することになり南半分はユーゴスラビアに帰属することとなった。本題はここからである。

 トリエステ湾に面する港はいくつか存在するが、鉄道が接続していてもっとも当時発展していたのはイタリアに帰属した北半分のトリエステに存在するトリエステ港のみであったのだ。トリエステ港の次に大きかったのは南半分にあったコペル港だったがこちらには鉄道が接続していなかった。それはなぜならここが隣国クロアチアダルマチア式海岸へと続く山地とカルスト地形が出会う急峻な地形で、コペル港から直線距離で10km内陸に入るだけで400mのカルスト台地が立ちはだかっているからだ。だが、鉄道接続のあるトリエステの港湾を失った以上、コペルへの鉄道を整備しないというわけにはいかず、分割から13年たった1967年にコペル港へ至る鉄道が開通した。だが開通した鉄道線、Prešnica–Koper線は連続勾配25‰が15km続くものとなった上、カルスト台地の断崖絶壁をつたって単線を敷いた険しい路線となった。このような路線概況ながら、ユーゴスラビアから独立した後、コペル港はスロベニア唯一の商業港湾となったため、この鉄道は現在進行形でスロベニアの物流生命線となっている。

 今年の欧州遠征ではぜひともこの断崖絶壁の生命線を撮影すべくスイス・チューリッヒから寝台列車に乗って一路スロベニアへ赴いた。チューリッヒから乗った寝台列車とはオーストリア/スロベニアの国境の街イェセニツェでお別れし、オーストリア=ハンガリー帝国によって敷設されたボーヒニ線でイタリアとの国境の街ノヴァ=ゴリツァまで南下。そしてそこからはレンタカーで移動という行程となった。ボーヒニ線で途中バス代行というトラブルがあったのだがなんとかノヴァ=ゴリツァまでつくことはできた。駅で友人2人に荷物を預け、そしていざレンタカー屋へと別の友人と2人で歩いて向かったのだがこれが思ったよりも距離があった。バス代行で遅れていたのもあって店に到着したのは予定時刻を少し過ぎてから。だが店には誰もいない。どうなっているんだと携帯で電話するも応答なし。一体どうしたものかと思ってると何事もなかったかのようにベンツに乗って若い女性店員がやってきて「ごめんね、待った?」と言ってきた。いやはや異国の地でデートの待ち合わせのような状況になるとは。レンタカーの手続きを済ませてみると車は先ほど店員が乗ってきたベンツ。なるほどそういうことだったか、と納得した後、ひとまず友人に運転してもらい助手席で道案内をしつつ駅に残してきた残る友人ら2人と荷物を回収。一路コペルへと向かった。昼過ぎ、千と千尋の神隠しに出てくるような砂利道を走ったりしながらついたのは断崖絶壁の上の壮大な俯瞰ポイント。ここはPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間であり、この峠路線でも一番の難所で、線路は大きく2回つづら折りになっている。

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 いままで行ったどの俯瞰撮影地よりも壮大な生の荒々しい自然を感じる撮影地だった。断崖絶壁の下にはヘビが木に巻き付くように線路が這っている。途中のスーパーで買い込んだ食材でサンドイッチを作りピクニック気分で撮影開始。するとしばらくして港からプッシュプルでコンテナ貨物列車が峠を登ってきた。フランス製のゲンコツ罐とドイツ製タウルスに挟まれて色とりどりのコンテナがゆっくりと運ばれていく。単線であるからそこまで輸送頻度が多いわけではないが20分に1本程度の間隔で上下の貨物がやってくる。「ここでは鉄道が”生きている”!」、そう思わざるを得ない光景だった。

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しばらくしてタウルスに牽引され長大編成のホッパー貨物がやってきた。港方面へ下る貨物は単機牽引で運転されているようだった。その後もしばし同ポイントで種々の貨物列車の撮影を続行した後は上の写真に見える左の崖側へ回り込んで撮影することにした。これまたジブリのような林道をはしって崖っぷちへ出た。

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 ちょうどよく斜光線になったころタウルスのプッシュプルで峠を登ってきたのはホッパー貨物。先ほど港へ下ったものの返しだろうか。6000kW超のタウルスがプッシュプルで貨物を引いていることからもこの区間の険しさがうかがい知れる。こうして欧州遠征二日目も初日のラインゴルトに続き上々の成果で締めくくることができた。この後は翌日の撮影に備え地元スーパーへ食料と水の買い出しに行くため一旦線路際を離れた。