ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.141 古城の街

 ドイツ東部、ドレスデンの南にKönigstein(ケーニヒシュタイン)という町がある。ドイツ語のKönigは王、Steinは石を意味し、直訳すれば王の石といったところの名前になる。ケーニヒシュタインはエルベ川に面した街であり、エルベ川が長年にわたってドイツの大地を削り取ってできたドレスデン・エルベ峡谷に位置している。そしてエルベ川を見下ろすようにそびえる標高360mのテーブルマウンテンの上にはケーニヒシュタイン要塞が築かれている。この要塞はボヘミア王国チェコ王国)がこのエルベ川流域のこの一帯を治めるために築かれたものであり、要塞がテーブルマウンテン、つまり大きな岩の上にあったことから王の岩、王の石という名前がついたわけだ。かつてボヘミアの王が治めたこの土地は15世紀以降、チェコ系領主の手を離れドイツ系やポーランド系の領主たちの手を渡り歩くことになった。18世紀後半以降からはドイツ系による領有が決定的となり今ではドイツ連邦共和国の一部になっている。

 このケーニヒシュタインの街並みをなめるようにエルベ川にそって走っているのがDěčín–Dresden-Neustadt線、通称エルベ渓谷線である。チェコ側のDěčín(ジェチーン)からドレスデンまでを結ぶ路線で、東欧圏からドイツへ抜ける重要幹線である。ゆえに旅客・貨物ともに国際列車が数多くひっきりなしに走っている。

 ケーニヒシュタインの駅の西側の要塞へと続いていく丘の中腹は少しばかりの公園になっており、そこからエルベ川を背景にケーニヒシュタイン駅周辺を俯瞰することができる。今年のGW欧州遠征では、ドイツの中でも有名な撮影地であるこの場所で国際旅客列車を撮ることにし、晴れを願いながら現地に赴いた。当日はプラハを早朝に発ち、エルベ渓谷線沿線で撮影しつつ北上し、順光時間帯となる昼過ぎにケーニヒシュタインに到着した。駅から歩くことおおよそ20分、丘の展望スペース近くの草原に陣をはり、チェコ方面からの国際列車を待った。

EC378 Berliner

 しばらく待ってやってきたのはEC378 Berliner号 プラハ本駅発ハンブルグアルトナ駅行である。チェコ鉄道リースのVectron CD193型が先頭を行き、その後ろにチェコ鉄道客車が連なる。青を基調にまとめ上げられた編成がラベ川(チェコではエルベ川をラベ川と呼ぶ)に映えてこれまた美しい。機関車側面に描かれているのはプラハドレスデン、ベルリン、ハンブルグの街並みのシルエット。そう、この列車の経由地を描いているのである。これもまた実に粋な塗装だ。

EC172 Hungaria

 EC378から1時間後、やってきたのはEC172 Hungaria号 ブダペスト西駅発ハンブルクアルトナ駅行きである。発駅から終着まで930km、13時間半超という長旅の列車である。こちらもVectronが牽引するが、客車は1両目がドイツ鉄道客車、2両目以降はハンガリー国鉄客車である。ちょうど列車通過に合わせたかのようにエルベ川でラフティングを楽しむ一団がやってきてくれた。一枚の写真の中にいくつの国が写り込んでいるのだろうか。そんなことを考えつつ、かつてボヘミアの王が治めた土地をボヘミアからの列車が走り抜けるのを見送った。

Report No.140 ボヘミアンPCCカー

 ボヘミアとは現在のチェコ共和国の西半分、ひいてはポーランド南部からチェコ北部にかけての地域を指すラテン語のいにしえの地名である。このボヘミアの地、チェコ共和国プラハには、かつてタトラ国営会社スミーホフ工場というものが存在した。ここでは主に路面電車やバスの製造を行っており、所謂「タトラカー」の愛称で知られている旧共産圏でよくみられる路面電車の一族が製造されていた。このタトラカーの一派ほとんどに共通する特徴として、片運転台、片側ドアなどがあげられる。博識な方はここで既にお気づきだろうが、これらの特徴はアメリカ・PCCカーと共通するものである。それもそのはずで、元々このタトラカーは第二次大戦後の路面電車復旧のためにPCCカーをライセンス生産したものだったからである。タトラカーの長男坊であるタトラT1の製造が開始されたのは1952年で、その後ソ連崩壊前夜1987年のT4形生産終了までこのPCCカー由来の路面電車たちが東側各国に輸出されていった。東西冷戦真っただ中という時代に共産圏でアメリカ資本主義の技術の流れをくむ車両が走っていたわけだが、意外と交通政策部局ではイデオロギーの対立はなかったのかもしれない。(もっとも、日本製のサハリン向け気動車D2形は導入当時レーニングラード製国産車両とされたいうような”噂”もあるため完全にイデオロギー対立がなかったワケではないのだろうが・・・。)

  今年のゴールデンウィークは東欧中心の日程を組んでいたため、プラハで2日ほどを過ごした。その間少しばかり街中でボヘミアンPCCカーを撮影することとした。ひとまず、Praha Masarykovo(プラハ・マサリコヴォ)駅併設のホテルに荷物を預け市内へと繰りだした。

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 まずはマサリコヴォ駅前の停留所にて。こちらはタトラT3形系列の重連。マサリコヴォ駅は第二次大戦末期に起こったプラハ暴動の際、ナチス武装親衛隊によって占拠され降伏したレジスタンスや市民53名が虐殺された駅でもある。それも今は昔。このように道端でのんびりと路面電車を撮影できる平和な時代を築くため尽力した人々に感謝しなければならない。

Praha Tram Tatra T3

 マサリコヴォ駅を後にし、街中をぶらり。プラハは第二次大戦中に絨毯爆撃を受けるなどしていながらも、歴史的な街並みが未だ数多く残っており、間違いなく歩いていて楽しい街の一つだろう。そんな中やってきたのはタトラT3R PLFとよばれるT3形を部分低床にした車両。金太郎塗装な赤帯が愛らしい。

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  お次はまた少し歩を進めてルネッサンス様式が特徴的なホテル・オペラを背景に一枚。タトラカーの隣をかつてはチェコの一大財閥シュコダの一端であったシュコダ・オート(現在はフォルクスワーゲン傘下)製のタクシーが並走してきた。

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 最後は有名なプラハ城バックで〆となった。現在はチェコ共和国大統領府として使われているプラハ城は、9世紀の築城以来、20世紀初頭までその時代ごとの統治者が時代ごとの建築様式で増改築を進めていった。中央に見えるは14世紀から20世紀初頭まで6世紀をかけて増改築が進められた聖ヴィート大聖堂。そしてその周りを囲むは15世紀に築かれた旧王宮と12世紀に建設が始められた聖イジー教会である。そんな歴史あるプラハ城を後ろに20世紀後半生まれのタトラT3形が行く。歴史の重みを感じながら美しいプラハの街を楽しんだ一日であった。

 

Report No.139 ラミナーツカ

 平成から令和に元号が変わった今年、天皇陛下の即位に際して所謂”ゴールデンウィーク”が今までで最長の10連休となった。10連休ともなればこの長期休暇を利用して国外に飛びたいと思うのが海外鉄の端くれとしての性。だが長期休暇ということで日本発の航空券は大暴騰をしており、どうにか韓国・ソウル発着で押さえることでなんとか渡航の足掛かりを得ることができた。まずLCCでソウルへ飛び、そこから台北バンコクを経由してオーストリアはウィーンへと飛び、オーストリアチェコ・スロバキアハンガリーを巡るというなかなかにハードな計画となった。

 ソウルからの飛行機では日本人を見かけることはほとんどなかったが、バンコクからの乗り継ぎの便は驚くほど日本人だらけで、いかに日本の社会が休みにくいのかを考えさせられた。そしてこのバンコクからの便には偶然にも知り合いが乗り合わせており、バンコクでしばし談笑させていただいた。

 十数時間のフライトの後オーストリア・ウィーンに到着したが、ウィーンについても目に付くのは日本人ばかり。興ざめしてしまう前にとそさくさとプラハ行きのRailjetに乗って初日の撮影に向かった。この日はウィーン~プラハの幹線の一部であるBřeclav–Znojmo線のŠakvice〜Popiceにて、各種国際列車や貨物を狙った。この路線はプラハ方面、さらにはドイツ・ドレスデン方面へと抜ける大幹線であり、オーストリアのみならず、スロバキアハンガリーなどからも国際列車が直通して来る。

 今回の遠征でここに来た理由の一つは”ラミナーツカ”と呼ばれるチェコ・スロバキア国鉄時代に製造された機関車を撮影するためであった。ラミナーツカとは”積層されたヤツ”といったところの意味で、外装の一部にガラス繊維積層強化プラスチックを使用していることに由来している。

CSD S489.0 001

 時折雨交じりという散々な天気の中ではあったが、撮影していると派手な色をした機関車が遠目に見えた。ラミナーツカだ!と少し歓喜しながらファインダーをのぞくと、そこに現れたのはまさかのS489.0 001、つまり1号機である。そう、この1号機は初号機ということで番号、塗装ともにチェコ・スロバキア国鉄時代のものに復刻されているのだ。あいにくの天気ではあったが、運よく初号機を記録できたことは不幸中の幸い(?)であった。

ZSSK Cargo 240

 昼を過ぎると、時折晴れ間が見えるようになり、その晴れ間をぬってまたしてもラミナーツカ牽引の貨物がやってきた。今回はZSSK Cargo所属の240形。大型な前面パノラミックウィンドウとあって日差しが厳しいのだろうか、運転席窓上部には新聞紙で即席の日よけが貼り付けられていた。

 この後はRailjetなどを撮影し、1日を締めくくった後、ローカル列車と急行列車を乗り継ぎ、音楽の都、プラハへと向かった。

Report No.138 重連

近年のダイヤ改正で愛知機関区所属DD51の運用の多くがDF200に置き換えが進み、DD51重連で荷を引く姿は珍しいものになりつつある。車齢を考えれば当然のことであるのだが、重連で荷を引く勇ましい姿が近い将来記録の中の存在になってしまうのは少し寂しいものである。

 DD51重連で荷を引く運用の一つに紀勢本線のロングレール輸送がある。ただ、自分にとっては往々にして運転ダイヤや運転時期の組み合わせが悪くなかなか紀勢本線内で記録できずにいた。更にいえば紀勢本線内で撮影できる時間帯のものとなると多くの場合、白浜以北の複線区間の場合が多くどうにも重い腰を上げられずにいたのだった。

そんな折、昨年の12月に入って友人から「新宮朝着でロングレール輸送の運転があるらしい」との知らせがきた。新宮に早朝に到着するダイヤでの運転はめったにないため、これは天候に期待できるならば行かなければならないという話になった。

運転は14日金曜日夜から15日土曜日朝にかけてということであったので、14日の夜に会社上がりの友人に車で拾ってもらい、東生駒駅で他の友人と合流し一路南紀へと向かった。天候予報は快晴。せっかくの白浜以南での運転とあって古座川の単線ガーター橋で撮るのがいいのではないだろうか、という話になった。

 夜明け前に古座駅周辺に到着し、撮影地に行ってみると思いのほか先客は少なく、場所取りが3つほどある程度であった。これはラッキー、と早々に場所取りをして朝を待つことにした。 朝日が昇りはじめたころ、ギャラリーが集まる前にいそいそと準備をはじめDD51を待ち受ける。気温は12月とあって低め、空は快晴。サプライズでやってきたキヤ141や287系くろしお、105系普通列車を眺めつつ待っていると続々とギャラリーも集まってきた。どうやら聞く話によれば古座ヴィラの俯瞰は満員御礼なようだった。

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 完璧に整えられた舞台に、朝日を浴びてDD51重連牽引のロングレール輸送列車がやってきた。少しエンジンをふかしつつ鉄橋を轟音と共に駆け抜けていく。冬の朝、早起きは三文の徳といったところだろうか、最高の一枚を撮ることができた。

 

Report No.137 遠戚

 国鉄DD54ディーゼル機関車といえば、かつて欠陥機関車とあだ名され、法定耐用年数の18年を満たさずして引退した曰く付き機関車である。DD54は当時西ドイツで既に実用化されていたV160形ディーゼル機関車の設計を元に開発されたものだった。だが、実際に運用開始してみると、他形式と一部設計を共通化したことや当時の日本の製造技術、保守技術に対してオーバースペックであったことに起因して悪名高い推進軸破損落下事故、所謂「棒高跳び」事故を起こしたり、変速機の故障を引き起こしたりするなどの不具合が相次いでしまった。これら不具合もあって、DD54は前述のように早期引退ということになってしまったのだが、ドイツ本国ではV160形が大きく成功をおさめ、少しずつ数を減らしているがいまだに現役で活躍している。

  現在ドイツ周辺で運用されているV160形ファミリーの大多数は218形と呼ばれるタイプのものである。218形の現在の主戦場はドイツ南部バイエルン州とドイツ北部ハンブルグ周辺の2つである。特に、バイエルン州で運用されている218形はスイス方面への国際列車の牽引に使用され花形運用を保っている。だが、近年ドイツでは既存路線の電化・高速化工事が進んでおり、この218形牽引のスイス国際列車が走る経路も一昨年より電化工事が開始された。この電化工事に伴って国際列車の走行経路が通常は経由しない曲線の多い非電化亜幹線Allgäu線に迂回されることになった。この迂回国際列車を記録するため、昨年の欧州遠征にてドイツ南部はLindauを起点に撮影に向かった。

 この線区は人よりも牛のほうが多いのではないかと思うほど畜産が盛んな地域で、多くの駅が廃止されてしまっているため、撮影地まで最寄り駅から5km以上というのがザラという状況になっている。そこで、Lindauで友人らとレンタサイクルを借りて列車で輪行して最寄り駅Röthenbachからほかの列車も撮影しつつサイクリングをすることにした。これが一番楽だと思っていたのだが、このあたりは緩やかな丘が延々と続くアップダウンの激しい区間で思いのほか汗だくになってしまった。

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 1時間強かけて到着したOberthalhofenの撮影地で狙うはスイスからの国際列車EC195 ミュンヘン行。のどかな放牧風景や行きかうローカル列車を眺めること2時間。定刻より20分ほど遅延して218重連に引き連れられて1等展望車を含むスイス客車8両のEC195がやってきた。DD54の遠戚にあたる赤い機関車の重低音と赤帯美しいスイス連邦鉄道客車、なんとも素晴らしい情景をドイツで堪能することができた。

 

Report No.136 箱庭

 夏によく聞かれる定番の質問といえば「行くべきは海か山か」ではないだろうか。海にも山にもそれぞれの魅力がありなかなか決めることのできない難問だ。鉄道写真でも海を背景にするか山を背景にするか、というのは定番の議題だろう。昨年の山陰本線迂回貨物でもこれは大きな議題の一つだった。だが山陰本線のよいところは、海も山も背景にできる撮影地が数多く存在していることだ。そのうちの一つ、五十猛~仁万の俯瞰でのカットは山陰迂回貨物でぜひとも押さえたいものの一つだった。遠景に島根半島の山々を望み、手前には白い砂浜と緑の築堤と、さながら鉄道模型ジオラマのような”箱庭”情景をDD51が牽引する貨物列車が走るわけなのだからファンとしては垂涎の情景である。

 五十猛~仁万で撮影するチャンスは意外と早く訪れた。運転が開始された4日後の9月2日、友人が有給をとって山陰迂回に行くということでこれに便乗させて山陰へ向かった。1発目を日原俯瞰で”山”を主題におさえていたので2発目は満を持しての五十猛での撮影となった。五十猛の撮影に着くと既に鈴なりの人出で立ち位置を見つけるにも一苦労のあり様だった。なんとか最上段付近で場所を確保し照り付ける夏の太陽を浴びながら小一時間列車を待つ。待っている間にもどんどんとギャラリーは増え、ついには撮影地背後の木に登って撮るギャラリーまで現れ始めるほどで、この迂回貨物の注目度を如実に表していた。

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 この日は上りが少々遅れていたこともあり、交換の都合で下りにも遅れが波及していた。定刻より少し遅れて、快晴の下、赤いDD51につれられてコンテナ貨物が軽やかにフレームに滑り込んできた。夏の白波を横目に山を望みながら走りゆくその姿を何度を肉眼に焼き付けながらシャッターを押した。

Report No.135 歴史街道

 第一次世界大戦終結オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体されるまでスロベニアオーストリア領であった。オーストリア=ハンガリー帝国がスロベニアを支配する中、1869年、スエズ運河が開通し地中海沿岸の港の地位は大きく向上した。当時帝国は現在のイタリア・トリエステ港を領地としており、既にウィーンとトリエステを結ぶ鉄道が開通していたが、スエズ運河開通によって更なる物流量の増加が予測された。このため、トリエステオーストリアを結ぶ第2の鉄道路線を建設することになった。そして1906年に開通したのが、スロベニアのイェセニツェ(Jesenice)からジュリア・アルプスを抜けイゾンツォ川(Isonzo)を抜けてゴリツァ(Gorica)を経由しトリエステへと至るボーヒン鉄道(Bohinj Railway)である。山々の緑に囲まれる車窓、ジュリア・アルプスを貫く全長6.3kmのトンネルやイゾンツォ川を超える大アーチ橋のソルカン橋梁など風光明媚な路線である。今でこそ数往復の貨物列車を除けば1両や2両の気動車が3時間に1本程度行きかうローカル線であるが第一次世界大戦では激戦地となったイゾンツォ川周辺への兵站輸送などで活躍した歴史の生き証人ともいえる路線である。

 このボーヒン鉄道では、夏季にスロベニア鉄道博物館が所有する蒸気機関車と旧型客車を用いて観光客向けの動態保存列車が走っている。昨年夏の欧州遠征では偶然にもちょうどよい具合でこの運転があることがわかっていたのでコペル(Koper)周辺での撮影の翌日、これを撮るためモスト・ナ・ソチ(Most na Soči)に宿を取り一日蒸気を追いかけることとした。モスト・ナ・ソチはイゾンツォ川とイドリカ川、バチャ川の3つが合流する急峻な谷間の街で、第一次大戦中は激戦地となった場所にほど近い場所である。

 この動態保存運転で使用される機関車は、第二次大戦中、ナチスドイツ占領下で導入された戦時機関車として有名なドイツ国鉄52形の同型機JŽ33(現SŽ33)、ユーゴスラビア王国時代に導入されたJDŽ06、オーストリア=ハンガリー帝国時代に導入されたSŽ25の三機のいずれかで、客車は2軸客車を主とする編成というなかなか豪華なものである。

 牽引機がなにかは公式で発表がないので完全に運任せなのだが、せっかくなら日本でお目にかかることができないE級機であるSŽ33(JŽ33)牽引であることを祈りつつ運転日当日は少し早めに宿を後にた。まずは宿すぐのモスト・ナ・ソチ橋梁を俯瞰するポイントへ向かった。モスト・ナ・ソチ橋梁はイドリカ川とバチャ川の合流点の上を渡るレンガアーチ橋とトラス橋が組み合わさった橋梁である。

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 朝露に濡れた斜面を登って待つこと2時間。定刻より少し遅れてSŽ33が逆機で古典客車たちを引き連れて橋梁の上に現れた。橋を渡ってすぐのモスト・ナ・ソチ駅で停車し撮影タイムが取られるため減速しつつ通過。迫りくる急峻な山々をぬってレンガアーチを渡ってくる蒸気機関車牽引の客車列車、なんと豪華な光景だろうか。モスト・ナ・ソチ駅での撮影タイムに少し便乗した後は車を走らせて次なる撮影地、ソルカン(Solkan)橋梁へ。

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 ソルカン橋梁は、第一次世界大戦時、オーストリア帝国軍の撤退時に川を渡るアーチ部が爆破され、のちに復旧された経緯を持つ橋梁である。これを峠道のパーキングエリアから俯瞰するポイントで列車を迎え撃った。第一次世界大戦の生き証人たる橋梁の上を第二次大戦期を代表する機関車であるドイツ国鉄52形の姉妹機が牽引する列車が走るというなんとも歴史の重みを感じる光景に夢中でシャッターを切った。

 この後は3日間のスロベニアでの撮影でお世話になったレンタカーを返却し、普通列車にのって復路の撮影へと向かうことにしていた。返却地のレンタカー店から駅までが少々距離があったのだが、レンタカー店の店員に交渉すると快く駅まで送迎してくれた。送迎代がわりに少しチップを弾んで店員と別れたあとは、ノヴァ・ゴリツァ(Nova Gorica)駅で復路まで停車中の蒸気列車をスナップ。

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 宮殿のような駅舎を前に古典客車たちが止まっているのを見ているとあたかも戦間期にタイムスリップしてしまったかのような感覚になった。かつて第二次大戦中、このノヴァ・ゴリツァ駅はクロアチアにあったナチス強制収容所へのユダヤ人や囚人の輸送の要衝でもあった駅である。ここにドイツ戦時型機関車52形姉妹機率いる列車が止まっているという姿は些か考えさせられるものがあった。

 さて、この復路に先行する列車で向かったのはアーウチェ(Avče)駅近くのイゾンツォ川のダム湖沿いの撮影地。ここも他同様のレンガアーチ橋がかかる場所なのだが、この橋梁はダム湖の縁をかすめて通る所謂「渡らずの橋」で、ダム湖に反射する姿が美しい撮影地である。午前の撮影とはうって変わって快晴の中、幾人かのギャラリーがいるだろうと思いつつ撮影地へ向かったのだが、予想に反してギャラリーはゼロ。同行の友人たちとそれぞれ思い思いのアングルを確保して列車を待った。

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 太陽がだいぶ西に傾きだしたころ、山間にドラフト音と軽やかなジョイント音が聞こえてきた。そしてつかの間、大陸の大型蒸気らしい薄目の煙を吐きながら蒸気列車が絶景の舞台の上に現れた。大型E級蒸気と色とりどりの客車、苔むすレンガアーチ橋、絵画のようなその情景はまさにシャッターを切っていることすら忘れる絶景だった。