ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.167 最後の大一番

 2021年3月ダイヤ改正にて、JR貨物愛知機関区所属のDD51の運用が終了した。かつては紀勢東線新宮方面や高山本線の貨物列車を担当するなど幅広い活躍を見せた愛知機関区所属機であったが、最末期は四日市~稲沢間のコンテナ列車および石油輸送列車あわせて数往復という小規模な運用となっていた。2018年には、西日本豪雨被害による山陰本線迂回貨物で活躍するという近年まれにみる大活躍を見せてくれたのが印象的であった。2016年ごろから毎年のように次回ダイヤ改正で運用終了という話がファンの間でささやかれていたことを考えると、皆が思っていたよりは生き永らえた、というべきであろうか。

 ダイヤ改正二日前の3月11日夜、友人から「愛知機関区のDD51の最終運用、撮りに来たらきっといいことあるよ」というなんとも怪しい誘いが来た。何か特別なことがあることを察して3月12日、四日市駅へと降り立った。四日市駅へついてわかったことは、引退記念ヘッドマークを掲出した状態で2080ㇾ発車式典までの間、貨物ホームにて撮影することができるということであった。普段なかなか立ち入ることのできないコンテナホームでの撮影を、それも記念HMとあわせて撮影できるというのはなんともありがたい話であった。

DD51 1801 2080レ 四日市駅

 2080ㇾの担当はDD51 1801、スノープロウ未装着が多い愛知機関区にあっては最後まで残り続けた数少ないスノープロウ装備機であった。2080ㇾの組成が完了したのち、案内に従って四日市駅コンテナホームの撮影スペースへと入場した。撮影会場はどこから話を聞きつけたのか、かなりの数のファンが集まっていた。多くの鉄道ファンとともに最後の出発までの姿を記録でき、感無量であった。こののち、報道各社の取材や出発式典が行われ、DD51 1801は出発合図にあわせて長い汽笛を響かせて重低音のエンジン音とともに四日市駅を後にしていった。

Report No.166 秘境列車

 登山鉄道というと、箱根登山鉄道やはたまたスイスのユングフラウ鉄道を思い浮かべる方も多いだろう。実は、登山鉄道という名前に明確な定義は存在していないのだが、おおむね、特殊な装備や構造をもって通常の鉄道車両では克服困難な路線を運行している路線を登山鉄道と呼んでいる、または名乗っている場合が多い。

 静岡県大井川鐵道井川線もそうした登山鉄道の一員として全国登山鉄道‰会に名を連ねている。‰(パーミル)とは千分率、つまり1/100を表す百分率(パーセント)に対して分母側を1000とした1/1000の比率で表す単位である。通常、鉄道においては勾配を表す際に1kmで何メートル上ったか、という比率で表すため、このパーミルを用いる。

 井川線の場合、千頭アプトいちしろ駅間および長島ダム井川駅間の平均勾配はそれぞれ約10‰と14‰、つまりそれぞれ1kmで10m、14m上がる普通鉄道と変わらない程度の勾配である。(一般に国交省における省令の中で普通鉄道では機関車列車の場合25‰、電車等の場合35‰を最急こう配としている。)だが、アプトいちしろ~長島ダム間はというと、1.5kmで89mを登るという平均勾配59‰の難所となっている。そしてこの区間の最大勾配は90‰となっており、角度にして5度の上り坂である。この急こう配のため、通常の鉄輪式粘着鉄道ではこの区間を走行できない。そこで、この区間では走行用レールのほかに歯車がかみ合うためのラックレールを設置するラック式鉄道となっている。鉄輪による粘着走行を行わず、車軸に設置された歯車とラックレールがかみ合うことでこの勾配を克服しているのである。

 この区間は元からこのような急こう配だったわけではなく、ダム建設によって旧来の経路が水没することになったため付け替えにより誕生した。そのため、当該区間1.5kmの短い区間のほとんどが大井川に沿って山肌にはりつくような形で走っている。

 コロナ禍がしばしの小康状態となった2020年夏、全国旅行支援が実施されたおりを見て、井川線を訪問した。アプトいちしろ~長島ダム間はその駅間の距離故に撮影地が多く存在するわけではないのだが、その特徴を存分に味わうことのできる撮影ポイントがいくつか存在する。この訪問で向かった先はアプトいちしろ駅北の大井川を渡る橋梁を見渡すことのできるポイントだった。

大井川鉄道 井川線

 長い汽笛を谷間に響かせながら、重苦しいモーター音とともに井川行列車は大井川をゆっくりと渡る。井川線では必ず機関車は麓の千頭側に連結されるのが特徴だ。橋を渡るとすぐにロックシェッドをくぐる。

井川線 アプトいちしろ~長島ダム

 ロックシェッドをくぐった列車は断崖絶壁から伸びる渡らずの橋を渡る。この区間では走行速度が15km/hに制限されているため、ガーター橋からの音は想像以上に静かだ。ギリギリと金属のこすれ合う音とモーターの重低音のみが谷間にこだまする。架線柱と橋の成す角度をみればここがいかに急こう配かお分かりいただけるだろうか。 

大井川鐡道 井川線

 井川行の列車が行ってしばらくすると、今度は千頭行の列車が山を下ってきた。途中駅終着の列車を併結しているため、客車の間に機関車がもう1両挟み込まれた11両中4両が機関車と言う豪華編成だ。短笛と長笛を繰り返しながらジリジリと列車は絶壁を進んでいく。これは山がちな日本ならではの光景ともいえるかもしれない。

 初撮影の井川線であったが、なかなかお目にかかることにできない登山鉄道をお手軽に楽しめ、大変満足のいく撮影であった。山肌を這うように走るが故、災害に対し脆弱なためしばしば運休することのある井川線であるが、願わくば末永く残ってほしい鉄道風景である。

Report No.165 戻り燕

 ある研究によれば、渡り鳥であるツバメのつがいのうち、オス・メスどちらかが翌年また同じ巣に戻ってくる割合はおおよそ2割弱であるという。こう聞くと思いのほか少ない割合だと思う人も多いかもしれない。

 さてさて、「つばめ」と言えば、九州新幹線の博多~鹿児島中央間の列車を想起する方も多いだろう。これは九州新幹線開業前の鹿児島本線を経由して同駅間を結んでいた特急列車の名前をそのままに受け継いだものである。この特急列車「つばめ」は、1993年に本来「有明」として運転されていたもののうち、当時の西鹿児島駅発着だったものを分離する形で誕生したものである。この新生「つばめ」のイメージに見合う車両として開発されたのが787系である。787系「つばめ」の最盛期には有明を併結するなどして最長11両で運転するなど、鹿児島本線の大黒柱として九州の大動脈を支えていた。

 九州新幹線新八代鹿児島中央開業後は、新八代以北へと運転区間を短縮し「リレーつばめ」として名前を変え、「つばめ」としての名前を新幹線へと譲った。同時に787系は、肥薩おれんじ鉄道へと移管されたかつての鹿児島本線新八代~川内間には入線しなくなってしまった。そして九州新幹線全通後は、リレーつばめの消滅とともに鹿児島本線博多以南での運用は激減していった。

 昨今では、片割れとして残っていた「有明」も廃止され、徐々に787系そのものの運用が減少傾向にある。そんな中、余剰車となった787系を新たな観光列車「36ぷらす3」へと改造するということが発表された。その運行ルートには、かつてのつばめの運行経路である博多~鹿児島中央も含まれていた。つまりは、久方ぶりに「つばめ」の残像が復活するということを意味した。だが、さらなる驚きは「36ぷらす3」が運転開始される前に待っていた。


 2020年10月末、「36ぷらす3」の運転に先立ち、肥薩おれんじ鉄道での787系乗務員訓練が行われるという情報が舞い込んできた。これはおそらく17年ぶりとなる787系の入線であり、「36ぷらす3」はまだ改造途中ということで、通常の787系を用いるということであった。これは何としてもかつての名優を鹿児島本線で撮らねばと、一路10月末日、鹿児島へと飛んだ。

 第一に向かった撮影地は、東シナ海を背にする西方~薩摩大川。早朝の鹿児島本線の揺れ荒れ狂う普通列車肥薩おれんじ鉄道を乗り継ぎ、西方の駅から歩くこと20分ほど。快晴の海沿いには既に多くのギャラリーが集っていた。大阪から来る友人から「早朝の飛行機にて行くので場所をとっておいてくれないか」との任を受け、徐々に狭まりつつある隙間をなんとか確保しつつ、秋晴れの中「つばめ」を待った。試運転の経路としては、朝に鹿児島中央を出発し、出水まで行き、川内まで折り返したのち再度川内へ、という風におれんじ線内を3往復するダイヤとなっていた。787系 肥薩おれんじ鉄道試運転

 午前11時前、一度目の試運転復路便がジリジリと焼ける日差しの中かろやかな警笛とともに現れた。天草諸島を見渡せるほどの秋晴れの中、かつての「つばめ」はゆっくりと走り去っていった。お気づきの方もいるかもしれないが、787系「つばめ」現役当時とは編成組成が逆転している。これはこの年の7月の豪雨により出水以北が土砂崩れにより不通となっていたためで、試運転のために宮崎経由で車両を送り込んだからである。(※ただし、厳密には現役当時もこのような逆転編成で運転された場合はあったようだ。)

787系 肥薩おれんじ鉄道試運転

 この日最後の鹿児島中央へと戻る試運転行路を撮るべく向かったのは草道~薩摩高城間の海沿い。せっせと浜を歩き、唐浜海水浴場の端に位置する裸島へと昇り湾を見下ろす場所に陣を張った。何本か肥薩おれんじ鉄道の列車が行ったのち、17年ぶりの「つばめ」がやってきた。東シナ海へとおちる夕日はガンメタリックの車体をほんのり朱色に彩った。

Report No.164 バイエルンの煙を追って

 日本人にとって馴染みのあるドイツの地域はどこだろうか。ドイツ連邦には16の州があるが、そのすべてを知っている日本人はそう多くないだろう。その16の州のうち、おそらく本邦で最も知名度があるといってもそう過言ではないのはバイエルン州ではないだろうか。サッカー好きな人であればバイエルン・ミュンヘン、そして少なくない人がアルトバイエルンソーセージで聞いたことがあるだろう。車好き・ミリタリー好きであれば、BMWの正式名称、Bayerische Motoren Werke(バイエルン発動機製造株式会社)を思い出すだろうか。

 バイエルン州はドイツ南東部位置するドイツ最大の州である。かつてはバイエルン大公国やバイエルン王国と名乗っていた、ドイツの中でも独自の文化が根付いた地域である。このバイエルンに、私有鉄道博物館バイエルン鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum)」がある。私有博物館でありながら、100両以上の車両を所有し、複数の蒸気機関車を動態保存している。動態保存と言っても、ここでいう動態保存とは博物館構内を往復するだけのようなものではない。きちんとドイツ中の本線を走れるように整備・維持されているのである。

 2019年末、知り合いから2020年2月にバイエルン鉄道博物館主催で01形蒸気機関車牽引の臨時列車がアルゴイ線で走るから撮りに行かないか、とのお誘いを受けた。アルゴイ線については当ブログでも何度か紹介しているが、バイエルンミュンヘン方面から南へボーデン湖抜ける風光明媚な路線である。2月であれば、南ドイツといえどもまだまだ冬。運が良ければ雪の中を走る01形を撮ることができる。そうとなれば航空券を押さえるのみである。話をいただいた数日後にはターキッシュエアラインズのミュンヘン行航空券を押さえたのであった。偶然にももう一人の友人が同時期に渡欧するとのことであったので、ならば一緒に撮影に来ないか、と誘い込み無事3人で撮影に赴くことになった。

 2月21日朝にドイツ・ミュンヘン入りした私は、先に渡欧していた友人と合流し一日事前ロケハンとアルゴイ迂回となっていたスイス方面ユーロシティーを撮った。その後、夕方にバイエルン鉄道博物館へと赴き、もう一人の発案者の友人と合流。バイエルン鉄道博物館にて翌日の準備作業を少しばかり撮影させていただいたのであった。ここでいささか残念な知らせが。本来牽引予定であった01.066号機が直近の検査で不具合が見つかり、代替として01.180号機が抜擢されるとの報。066号機は貴重な原形に近い01であっただけでに残念な知らせではあったが、こればかりはどうしようもなかった。(ここでは詳細を語ることができないが、066号機の不具合はかなりの重症で、数日で治るような代物ではなかった。)

 そして待ちに待った運転日2月22日がやってきた。この日は前日より少々雲が増えたものの、晴れが続いていた。アウクスブルクの宿を早朝に出立し、ブーフロー(Buchloe)手前で既に一発撮ったのち、Aitrangの集落近くの貯水池の撮影地へと赴いた。

Br01.180 Bayerisches Eisenbahnmuseum Sonderzug

 ミュンヘン方面行ユーロシティーなどを撮影していると、すぐに予定通過時刻はやってきた。私の友人のみならずその他の知り合い日本人鉄数人とペンタックス64を持った気合の入った現地鉄が参戦するなど、なかなかに盛況となる中、01.180号機に引き連れられて臨時列車はやってきた。力強く大地を蹴る01の真っ赤な動輪が勇ましい。この貯水池に住み着いている白鳥がちょうどよいところにフレームインしてくれたのは運がよかったからだったのだろうか。

Report No.163 東国の新人

 欧州において、鉄道車両の多くは顧客たる鉄道会社が一から設計してオーダーメイドするものではなく、ありものの設計を微調整して導入するというセミオーダーメイドが主流となっている。これはひとえに、電化方式や信号方式さえ違えど、軌間がおおむね1435mmであり、早くから国際列車を直通させる目的で車両規格の統一化が進んでいたことが要因にあるだろう。機関車においてもこの傾向は顕著であり、オーダーメイドに近い仕様となるものは軌間が1067mm以下のナローゲージ車両やイギリスなど車両規格が小さい一部国・地域のみというような状況である。

 そのようなセミオーダーメイドの電気機関車で今、欧州で最も導入が進んでいると言っても過言ではないのがドイツ・Siemens製Vectronである。現在Vectronは1000両以上納入されており、欧州ほとんどの国でその姿を見ることができる。欧州各国の多様な電化設備に対応した様々なパッケージで展開されており、1機で交直合わせ最大4つの電源に対応することができる。そのため、多くの鉄道会社が多国間直通運転を行う貨客列車へ投入している。オーストリア連邦鉄道ÖBBもまたそうした会社のひとつである。ÖBBは中欧オーストリアという立地上、貨客問わず国際列車が数多く運転されている。これまでは、多電源対応の機関車としてSiemens製EuroSprinterが運用されてきたが、Vectronの登場により、一部運用ではEuroSprinterをVectronで置き換えている。

 オーストリアからみて南西に位置するスロベニア・Koperの港は、オーストリアから最も近いアドリア海側の港の一つである。Koper港へ向けÖBBによって運行されている貨物列車の一つがメルセデスの完成車輸送である。2018年まではこの運用はEuroSprinterによって行われていたが、2019年より、新鋭Vectronへと運用が置き換えられた。2019年11月の渡欧において、このVectronへと置き換わった完成車輸送を撮影するべく、スロベニア鉄道Koper線へと出向いた。

 Koper港への車両出荷便は朝10時すぎごろにČrnotiče付近の峠をKoper方面へと下るのだが、正確な運転日やダイヤを把握できなかったため、運転があるかどうかは半ば運任せであった。Koper線は交換駅こそあるが大部分が単線であるため、多くの下り貨物は一旦峠の上の複数の駅で複数便が待機させられ、上り貨物の通過を待つ。また、深夜帯は港の作業員の都合のためか運転は限られていることを事前に調査済みであった。そこで、もし出荷便の運転があるならば、朝早い段階で峠の上のどこかの駅で待機しているのではないかと読んだ。

 早朝4時ごろ、眠い目をこすりながら、A1号高速道路をひた走りKoper方面へと向かった。まずDivača駅へと向かったが、ここには車運列車はいなかった。次に向かったのはKozina駅。まさにビンゴ、車運列車はここで側線に止まっていた。側線での停止位置の都合上牽引機がVectronであるかは確認できなかったが、ひとまず運転があることはわかった。そうとわかれば、もう撮影地へコマを進める以外に選択肢はなかった。この日はアドリア海から雨雲が垂れ込むあいにくの天気であったが、こればかりは致し方ないとあきらめて、Zanigradの丘の撮影地へ向かった。

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 丘から見下ろす谷沿いの森は秋とあって紅葉で色づいた木々が点在していた。丘を登っていると、ちょうど一本貨物が下ってきた。よく見るとÖBB Vectronが牽引するコンテナ貨物であった。本来撮りたかった立ち位置での撮影とはならなかったが、ひとまずVectronが運用されていることは確認できた。そののち、狙いの立ち位置でセッティングし待つこと2時間ほど。10時半前にお目当ての車運列車がやってきた。赤い車体のサイドに白あしらわれたÖBBの大きなロゴは丘の上からでもはっきりとわかる。東国(Österreich)の新人はメルセデス車を満載した貨車を引き連れて峠を下って行った。終点Koper港まではあと少しの道のりだ。

Report No.162 峡谷

 ジュリア・アルプス山脈がそびえるスロベニア北西部は、切り立った山々と深い森、そして囁く清流が織りなす絵本のような景色が広がっている。その一つがヴィントガル(Vintgar)峡谷である。1891年に発見されたこの峡谷は、ジュリア・アルプスから流れるラドウナ川によって荒々しく削られた岩肌と深い森に囲まれた全長2km弱の峡谷である。スロベニア随一の名所と言ってもいいブレッド湖からもほど近く、渓流に沿って遊歩道が整備されているためトレッキングに人気のスポットである。

 このヴィントガル峡谷の北端ほど近くをスロベニア鉄道のBohinj線が貫いているのだが、峡谷を一跨ぎで越えるために石積みのアーチ橋が架けられている。秋になると、この橋梁の周りは紅葉で真っ赤に染まる。ローカル線であるBohinj線の本数は決して多くはないが、イタリア・フィアット製の気動車や場合によっては動態保存運転の蒸気機関車牽引の客車列車が走るなど魅力満点の路線である。

 日本の秋も深まってきた2020年11月、スロベニアの紅葉もころあいとみて東京・羽田から出国した。晩秋の欧州は秋といえどもう日本の冬のような気温であった。早朝の寒さに震えながら、ブレッド湖沿いのホテルを出立し、途中スーパーでパンとチーズとハムを買い込んでからヴィントガル峡谷へと向かった。峡谷へと至る森の遊歩道を30分ほど歩いて撮影地周辺へはたどり着いたのだが、どうにも事前に調べていたベストな立ち位置が見つからない。峡谷の管理事務所で聞いてもいまいち要領を得ない回答しか燃えらなかった。普通列車まではまだ時間があったので、イチかバチか、と覚悟を決めて遊歩道の裏側の山を登って探してみることにした。

 探すこと15分ほど。思い描いていた立ち位置を見つけることができた。想定していたよりも木々の間からであり、そして足元はすぐに崖という中々にスリリングな場所であった。美しいアーチ橋梁の背景に広がる紅葉はこの寒さの中にあってまだまだ見ごろという状況。なかなかに良いではないか、と、ひとまず買い込んだ食材で作ったサンドイッチを頬張り森林浴をしながら列車を待った。

スロベニア鉄道 Bohinj線

 しばらくして、JeseniceからNova Goricaへと向かう普通列車がやってきた。来たのはフィアット製の2両編成のディーゼルカー。検査明けなのか紅葉に負けないまばゆいばかりの赤い車体が石橋の上をコトコトと歩んでいった。

 本来であれば、この日は蒸気機関車の動態保存運転設定日であったのだが、どうやら予約人数に足りなかったため旅程キャンセルとなっていたようであった。少々悔しい思いをさせられてしまったが、こればかりは仕方ない。次回に期待、いや、次回は自分で企画して貸切を走らせるのもありかもしれない、と帰路の飛行機で思いにふけったのであった。

Report No.161 三国特急

 欧州において国際列車は珍しい存在ではない。ひとたびドイツやスイスの大規模な駅へ行けば、一時間のうちに一本は少なくとも国際列車を見ることができるだろう。近年では、近距離の移動に対して飛行機を使うことによる環境への負荷を減らそうという、いわゆる”飛び恥”なる世論と合わせて、国際列車の立場は向上の一途である。これまでは、他国への乗り入れの簡便性から国際列車には客車が多く使われてきたが、近年では利便性の向上のため徐々に電車列車による国際列車が増えてきている。このような列車の一つがEuroCity-Express(ECE)である。ECEは現在7往復が運転されており、そのうちの1往復はドイツ・フランクフルトとイタリア・ミラノをスイス経由で8時間かけて運転される長距離電車特急である。このECEに使用されるスイス国鉄RABe503形のうちの1本、第22編成は、ECEのプロモーションを兼ねてドイツ・スイス・イタリアの国旗とともに、走行経路沿線の有名な建造物をあしらった特別ラッピングを施されている。だがしかし、RABe503自体はECEのみならず、スイス国内外の列車で使用されているため、この特別ラッピングを狙って撮影するのはなかなかに至難の業である。

 2019年の訪欧の際、WassenにてVSOEを撮影後も快晴が続いていたため、先に帰国する友人をBrunnenの駅まで送り届けた後、Steinenのストレートへと足を向けた。Steinenはゴッタルド峠を通るすべての列車が通過する地点なため、暇つぶしにはもってこいの場所である。Steinenのストレートの背後、北側に位置するのはRossberg山。比較的開拓が進んでおり、そう高くないように見える山なのだが、それでも最高峰のWildspitzは海抜1580mの立派な山脈である。(日本であると、八甲田山由布岳あたりが標高としては近い。)

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 撮影地でのんびりと昼下がりの貨物や優等列車を撮影していると、チューリヒ発ミラノ行のEuroCity EC19がやってくる時間となった。この列車はRABe503/ETR610(RABe503と同型の車両である)によって運行されるものであったので、何が来るか楽しみに待っていると、幸運にもやってきたのは第22編成、三国ラッピングの編成であった。通常塗装の車両も悪くはないが、やはり一編成だけのイロモノとなるとうれしいものだ。次はぜひドイツにて撮影してみたいものだ。