ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.131 断崖絶壁の生命線

 バルカン半島の付け根の西側、イタリアの隣にスロベニアという国がある。似た国名にスロバキアがあるがそれとはまた別の国である。総人口約200万人、面積20273㎞という小国だが、北はオーストリア、東はハンガリー、南はクロアチア、西はイタリアに囲まれ、アルプスと地中海のどちらの側面も併せ持つ”ヨーロッパの箱庭”のような美しい国である。だが果たしていくらの日本人がスロベニアを知っているだろうか。この小国が知られていない理由は小国であるが故だけではなく、単体の国としては比較的新しい国であることもかかわっているのだろう。スロベニアは27年前まで所謂「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と日本で呼ばれていた地域である(当時はスロベニア民共和国としてユーゴスラビアの一部であった)。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が記憶に新しい方も多いかと思うが、これを前に1991年の十日間戦争によってユーゴスラビア連邦から独立している。その以前の近世で言えば、1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、1918年から1941年まではユーゴスラビア王国の構成地域であり、1941年から1945年まではナチス・ドイツ、イタリア、クロアチアハンガリーに占領または分割統治されていた。激動の近世を物語る地域であり、「スロベニア」という名が入れ替わり立ちかわる支配者たちによって埋もれてしまったのである。

 第二次世界大戦終結した際、イタリアとユーゴスラビアの間で港湾都市トリエステ周辺を巡って領土問題が発生した。冷戦黎明期の中、イタリアは西側でありユーゴスラビアは東側であったため冷戦の最前線となったのである。一旦は問題を棚上げし国連管理下でトリエステ自由地域として米英とユーゴスラビアによってトリエステは南北に分割されそれぞれ統治されることになった。そして1954年に北半分はイタリアへ帰属することになり南半分はユーゴスラビアに帰属することとなった。本題はここからである。

 トリエステ湾に面する港はいくつか存在するが、鉄道が接続していてもっとも当時発展していたのはイタリアに帰属した北半分のトリエステに存在するトリエステ港のみであったのだ。トリエステ港の次に大きかったのは南半分にあったコペル港だったがこちらには鉄道が接続していなかった。それはなぜならここが隣国クロアチアダルマチア式海岸へと続く山地とカルスト地形が出会う急峻な地形で、コペル港から直線距離で10km内陸に入るだけで標高400mのカルスト台地が立ちはだかっているからだ。だが、鉄道接続のあるトリエステの港湾を失った以上、コペルへの鉄道を整備しないというわけにはいかず、分割から13年たった1967年にコペル港へ至る鉄道が開通した。だが開通した鉄道線、Prešnica–Koper線は連続勾配25‰が15km続くものとなった上、カルスト台地の断崖絶壁をつたって単線を敷いた険しい路線となった。このような路線概況ながら、ユーゴスラビアから独立した後、コペル港はスロベニア唯一の商業港湾となったため、この鉄道は現在進行形でスロベニアの物流生命線となっている。

 今年の欧州遠征ではぜひともこの断崖絶壁の生命線を撮影すべくスイス・チューリッヒから寝台列車に乗って一路スロベニアへ赴いた。チューリッヒから乗った寝台列車とはオーストリア/スロベニアの国境の街イェセニツェでお別れし、オーストリア=ハンガリー帝国によって敷設されたボーヒニ線でイタリアとの国境の街ノヴァ=ゴリツァまで南下。そしてそこからはレンタカーで移動という行程となった。ボーヒニ線で途中バス代行というトラブルがあったのだがなんとかノヴァ=ゴリツァまでつくことはできた。駅で友人2人に荷物を預け、そしていざレンタカー屋へと別の友人と2人で歩いて向かったのだがこれが思ったよりも距離があった。バス代行で遅れていたのもあって店に到着したのは予定時刻を少し過ぎてから。だが店には誰もいない。どうなっているんだと携帯で電話するも応答なし。一体どうしたものかと思ってると何事もなかったかのようにベンツに乗って若い女性店員がやってきて「ごめんね、待った?」と言ってきた。いやはや異国の地でデートの待ち合わせのような状況になるとは。レンタカーの手続きを済ませてみると車は先ほど店員が乗ってきたベンツ。なるほどそういうことだったか、と納得した後、ひとまず友人に運転してもらい助手席で道案内をしつつ駅に残してきた残る友人ら2人と荷物を回収。一路コペルへと向かった。昼過ぎ、千と千尋の神隠しに出てくるような砂利道を走ったりしながらついたのは断崖絶壁の上の壮大な俯瞰ポイント。ここはPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間であり、この峠路線でも一番の難所で、線路は大きく2回つづら折りになっている。

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 いままで行ったどの俯瞰撮影地よりも壮大な生の荒々しい自然を感じる撮影地だった。断崖絶壁の下にはヘビが木に巻き付くように線路が這っている。途中のスーパーで買い込んだ食材でサンドイッチを作りピクニック気分で撮影開始。するとしばらくして港からプッシュプルでコンテナ貨物列車が峠を登ってきた。フランス製のゲンコツ罐とドイツ製タウルスに挟まれて色とりどりのコンテナがゆっくりと運ばれていく。単線であるからそこまで輸送頻度が多いわけではないが20分に1本程度の間隔で上下の貨物がやってくる。「ここでは鉄道が”生きている”!」、そう思わざるを得ない光景だった。

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しばらくしてタウルスに牽引され長大編成のホッパー貨物がやってきた。港方面へ下る貨物は単機牽引で運転されているようだった。その後もしばし同ポイントで種々の貨物列車の撮影を続行した後は上の写真に見える左の崖側へ回り込んで撮影することにした。これまたジブリのような林道をはしって崖っぷちへ出た。

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 ちょうどよく斜光線になったころタウルスのプッシュプルで峠を登ってきたのはホッパー貨物。先ほど港へ下ったものの返しだろうか。6000kW超のタウルスがプッシュプルで貨物を引いていることからもこの区間の険しさがうかがい知れる。こうして欧州遠征二日目も初日のラインゴルトに続き上々の成果で締めくくることができた。この後は翌日の撮影に備え地元スーパーへ食料と水の買い出しに行くため一旦線路際を離れた。