ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.44 新幹線夜を往く

 「新幹線」という言葉を聞いたときに、いまだ多くの人がイメージするのは、初代新幹線車両0系であろう。団子鼻や文字通り弾丸列車の愛称で長きに渡り親しまれ、戦後日本を象徴する顔であったと言っても過言ではないだろう。

 GHQによる陸・海軍の解体、航空・軍需産業の禁止によって多くの軍技術者が路頭に迷うことになった。当時、戦争で車両、線路ともに甚大な被害を受けていた日本の鉄道網は「買い出し列車」に代表されるような慢性的輸送力不足にあえいでいた。そんな中、救済措置として多くの技術者たちが、国鉄へと再就職を果たした。そして、戦後復興に伴う輸送需要の増加への対応、都市間輸送の高速化などの輸送力改善のため戦前から夢物語と言われていた「弾丸列車計画」を実現させることになった。ダグラスDC-8輸送機の設計を参考にしたとも言われる先頭形状や、蛇行動を抑えるために開発された空気バネ採用の台車、自動列車制御装置の開発など、彼ら元陸・海軍の技術者たちと国鉄マンたちが結集して誕生した新幹線、および0系はまさに平和への転換、復興の象徴であったのだ。

 0系は1964年の東海道山陽新幹線開業から1986年まで製造が続けられ、長らく新幹線の顔であったわけだが、1999年には東海道新幹線から引退、2008年には山陽新幹線から引退しその新幹線としての役目を終え、一部の保存車を除き随時解体されていった。この引退したもののうち、解体を免れ保存されたものの中には、先行製造車(先行量産車)トップナンバーである21-1、22-1、16-1、2次車トップナンバーである35-1があった。

 この保存車群は、長らく大阪・弁天町駅に隣接する交通科学博物館で保存展示されていたのだが、老朽化に伴う閉館、梅小路に新設される京都鉄道博物館への移設に際し陸路にて輸送されることになった。2015年7月13日深夜、友人から先頭車である21-1を積載したトラックが動き出したとの報を受けて、寝静まった京都の町を走り、搬入ルートである木津屋橋通りへ向かった。

 

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21-1は国道1号線堀川通を北上し七条通りを西に左折、七条大宮を左折し大宮木津屋橋を右折し、象徴的な団子鼻を梅小路側に向け、後進で木津屋橋通へと入った。細い木津屋橋通を時速およそ10kmにも満たない速度でゆっくりとゆっくりと大勢のギャラリーに見守られながら梅小路へと向かう。途中いくつか街路灯がある。街路灯で0系特有の団子鼻がぼぅっと照らし出されかけた瞬間がシャッターチャンス。「いまだ!」そうして夢中でシャッターを切った。