ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.151 パノラマ急行

 言わずと知れた峠路線の聖地、スイス国鉄Gotthard線は、3000~4000m級の山々が連なるアルプス山脈の谷間を縫うように走り、スイス/Zürich方面からイタリア/Milano方面へ抜ける路線である。2016年にGotthard Base Tunnel(ゴッタルド基底トンネル)が開通したことにより、ループ線や蹄鉄カーブが多用されていた従来の線路は旧線となり、現在は、一部の貨物や観光列車、イベント列車等が走行するだけとなっている。その数少ない列車の一つが、SBB(スイス連邦鉄道)が運行するGotthard Panorama Expressだ。この列車はGotthard線でも風光明媚なArth-Goldau~Lugano間を火曜日から日曜日毎日1往復する設定となっている。そして”Panorama”と銘打っているだけあって、一等展望車を複数両連結し、旧線からのアルプスの眺望を楽しめるようになっている。一等展望車自体は他の列車でも連結されていることはあるが、複数両連結されるという列車はあまりないように思う。加えて言えば、この列車の牽引はRe4/4IIであり、これがGotthard線旧線を走行するのだから、被写体としては申し分なしである。

 このGotthard Panorama Expressは2017年から運行されているのだが、渡欧の際の予定が合わず撮影できずにいた。今年こそは撮らなければならない、そう思って迎えた2019年、9月のメルクリン祭の臨時列車をメインに撮影するために組んだ予定でやっとこの列車を撮影できる機会に恵まれた。遥々日本から深夜発のターキッシュエアラインズを利用してイスタンブールを経由し翌朝8時頃、スイスはZürichへと降り立った。そしてそさくさと入国審査を通り、預け荷物の三脚を回収し、空港から電車に飛び乗った。向かう先は通いなれたWassenだ。Erstfeldで電車からGöschenen行バスに乗り込み、道中のバス停から先に欧州入りしていた友人と合流。バスに揺られること30分ほど、燦燦と晴れた夏のWassenへと到着した。今日撮影するGotthard Panorama Expressは南行。通過時間帯は14時半ごろだが、夏時間の為実際には13時半の光線となる。そこでいつもVSOEを撮影する際は上段に向かうところを、今回は下段で押さえることになった。スーパーで昼飯としてパンと牛乳を買い込み、チリチリと肌を焼く日差しの中下段へと足を進めた。

SBB Wassen Gotthard Panorama Express

 昼食を食べながら牧場脇の斜面にのんびりと設営。何本かの普通電車で構図を確認しつつ主役の登場をまつ。天候は申し分ない晴れ。谷間のむこうにはアルプスの山々が荒々しくその岩肌を見せている。そして主役はやってきた。赤いRe4/4IIに率いられてパノラマ車を3両連結した豪華編成がカーブに身をくねらせながら走る。夏の欧州晴れに感謝しつつフィルム、デジともにシャッターを切る。メルクリン祭の臨時列車たちを撮影に訪れた欧州で一発目から幸先のいいスタートとなった。

Report No.150 五山送り火

 8月の京都で一大イベントといえば、五山送り火である。五山送り火の中で最も標高が高い位置にあるのが、如意ケ嶽にともされる大文字(右大文字)だ。それゆえ、京都市内の広い範囲で見ることができる。更にいえば、京都の市街地中心部が碁盤の目になっていることや景観条例による建築物の高さ規制も手伝って、離れていてもかなり見やすい場所が多く存在する。ただ、鉄道と絡めて撮影するとなると、これが実は案外該当する場所がない。そんな数少ない場所の一つが、京福電鉄 北野線の馬代通り踏切である。馬代通り踏切から東を向くと、ちょうど北野白梅町駅1番線に停車する電車の左上に大文字の文字が浮かび上がる構図になる。これは京都の鉄道ファン界隈では割と有名で、私としてもそのうち記録したいと思っていた構図だった。すると昨年、突如として北野白梅町駅が今までの3面2線の頭端式構造から2面1線の駅に改修されることが発表された。問題だったのは、2面1線になる上で、今までメインで使われていた1番線が撤去され、2番線のみとなるという点だった。なぜなら、馬代通り踏切から東を向いた際、2番線はちょうど架線柱やその他構造物に隠されて車両が見えなくなってしまうからだ。改修は2019年11月に始まるというこれまた急な話であったので、突然の見納め宣言であった。

 この機を逃してはいけないと、夏真っ盛りの8月16日、京の夜に繰り出した。普段はほとんどギャラリーのいない馬代通り踏切も、この日ばかりは見納めをしようと多くのファンが駆け付けていた。20時ちょうど、如意ケ嶽の大文字に火が入った。五山送り火は一度点火されると20分程度しか火が持たないため時間との勝負になる。

京福電鉄 北野白梅町駅

 1本目の列車で構図を確認し、2本目の列車が北野白梅町駅のホームに入ると同時にすぐさま構図を作りシャッターを開けた。したたり落ちる汗を拭きながら夏の夜空に浮かび上がる「大」の字と消えゆく北野白梅町駅を記憶に納めた。

Report No.149 第一只見

 日本の豪雪地帯はどこか?と聞かれたら、「それは勿論北海道だろう」と答える人も少なからずいることだろう。だが実際には、年間平均降雪量・最深積雪量ともに上位にくるのは北海道以外の地域のほうが多いのだ。どちらかといえば、北海道よりも長野や新潟、福島、山形といった信越地方や東北地方のほうが多く上位にランクインするのである。

 そんな豪雪地帯のひとつが福島県の只見地方である。只見地方の年間平均降雪量は1294cmであり、11月頭から3月末までの150日間にこの量が降っていると仮定した場合、一日あたり約9cm弱降雪していることになる。こういわれるといかに降雪量が多いか少しばかり実感していただけるだろうか。

 降ったからにはその分の水はどこかにいかねばならない。降雪量が多いということはつまりその土地が含むことになる水の量もまた多いということだ。その水は地下水や河川の水となって土地を耕していく。只見川はそうした豊富な雪解け水が生み出した川なのである。山間をゆっくりと流れるエメラルドグリーンの川面は谷間に敷かれた鏡のように周りの景色を複製し景色に更なる奥行きを持たせている。

 JR只見線はこの絶景の中を走る風光明媚路線であり、列車は只見川を渡ったり並走したりを繰り返し走り抜けてゆく。只見線の中でも随一の名所が会津桧原会津西方駅間にかかる第一只見川橋梁である。鉄道橋梁というとトラス橋やガーター橋であることが多い中、ここは珍しくトラスアーチ橋となっており只見川に橋脚を設けず一気に渡りきっている。これこそが、この橋梁を景勝地たらせている理由だ。

 初夏になると、只見川一帯は川霧が出ることで有名だ。この時期に合わせて、友人と間もなく引退すると予告されていたキハ40系の見納めも兼ねて第一只見川橋梁の俯瞰撮影地へ向かうこととなった。只見線 会津桧原~会津西方 第一只見川橋梁

 7月15日、夜な夜な車を走らせたどり着いた会津西方では狙い通り川霧が出ていた。夜明け少しして会津西方の道の駅の脇から伸びる遊歩道を登り、撮影地にスタンバイ。意気揚々と列車を待ったまでは良かったが、ここから風向きが悪くなり眼下の第一橋梁は濃霧の中へと姿を隠してしまった。濃霧の中、朝の一本目の列車は音だけを我々に響かせて走っていってしまった。そこから待つこと1時間強。霧が晴れだしたころに会津川口行の列車がキハ40系2両編成でとことことやってきた。一面の川霧とはいかなかったが川面に張り付く薄霧と息吹く山霧の中にこだまするディーゼル音をコマに納めることができた。今後も車両は移り変わっていくだろうが、この絶景は変わらずにいてほしいものだ。

Report No.148 キハ52

 千葉のいすみ鉄道JR西日本からキハ52-125が譲渡されて早10年になる。譲渡後すぐに赤/クリームツートンの一般色に塗り替わったが、2014年に首都圏色へと塗り替わり、昨年2019年までながらく首都圏色で活躍していた。それが昨年、再び一般色に戻される運びとなった。いすみ鉄道キハ52とともにキハ28が”急行列車”として運行されているのは以前から知っていたし、撮影にも行きたかった。だが、いかんせん重い腰をなかなか上げることができず、その上首都圏色に塗り替わっていたことも手伝って、これまでついぞ訪問できずにいた。

 そんなとこへ友人から「一般色に塗り替わって出てくるから、運行再開初日に撮影に行かないか。」と誘いが来た。この機会を逃しては、当分自分から行くことはないだろうと思い、誘いに乗ることにした。実はこのいすみ鉄道で走っているキハ52-125はかつて一度修学旅行で行った富山で見かけたことのある車両であり、実に十数年ぶりの再会となった。

 梅雨真っ只中の6月17日、はるばる出かけた千葉県は梅雨のつの字もないスカッ晴れ。夏光線ではあったが絶好の撮影日和であった。各所で撮影したのち、最後のシメに向かったのは西大原~上総東の俯瞰。蒸し暑い夏の日差しの中、マダニやヒルに警戒すべくパーカーを羽織って登ったため、撮影地点についたころには自分でもびっくりするほど汗だくになっていた。そして頂上についていざセッティングを始めるとカメラのバッテリーをロケ車に充電したまま忘れてきたことに気付いた。今から俯瞰を降りて取りに戻ってまた登るだけの時間はない。万事休すである。

 だが、ここで幸運があった。なんと一緒に登ってきたギャラリーの方が自分と同じカメラの使用者でその上予備バッテリーを持っているので貸してくださるとのこと。いやはや感謝してもしきれない恩をかけてもらった。

いすみ鉄道 西大原~上総東 キハ52-125+キハ28-2346

 そうこうしているうちにキハ52を先頭にした急行列車がてろてろと眼下の線路を走ってきた。山間にこだまするジョイント音とエンジン音が心地よい。バッテリーを貸していただけたことに感謝しながらレリーズボタンを押した。

 

Report No.147 原色三昧

 普通の人にとっては、原色といえば赤、青、緑のような光の三原色などをイメージするだろう。だが、鉄道ファンにとって「原色」というワードは少しばかり特別な意味を持つ。鉄道ファンにとって原色とは、ある車両が登場したその時の塗装を意味する。

鉄道車両は、多くの場合10年単位での使用がされるため内外装ともに経年で劣化していく。もちろん塗装については定期的に塗りなおしが行われるわけだが、10年単位ともなれば、定期的に修繕や更新工事が行われたり、はたまた他社、他地域への転属が発生したりする。これらの節目に合わせて、イメージ刷新狙い塗装が変更されることが多々ある。そうすると、いわゆる「原色」は”しばらく”または永遠に見納めとなるのである。しかし、往々にして、復刻イベントや引退記念、はたまた塗料在庫の都合などで原色塗装が復活することがある。そうともなれば、一大事、ひとたび晴天で撮影に好都合な運用ともなれば沿線に多くのギャラリーが繰り出すわけである。

 梅雨も間近に迫った昨年5月26日、友人に誘われて伊豆半島方面へと繰り出した。なぜかといえば、この日の朝東海道線を上ってくる5086レを”原色”のEF65が引いてくるからであった。JR貨物EF65は長らくほとんどが貨物更新色の装いをしていたが、残存全機が更新工事を終えた更新機のみとなったため、わざわざ更新機と未更新機を区別する必要がなくなり原色に戻されることになったと聞いた。一部の人からすれば古臭い塗装かもしれないが、我々鉄道ファンにとってすればありがたい話である。

EF65-2096 5086レ

 東海道本線の名撮影地、石橋のトンネル飛び出しカーブでEF65-2096牽引の5086レを迎撃。朝の光線でクリームと青のツートン塗装がよく映えた。JR西や一部JR東のスノープロー未装備機と比べるとやはりスロープローが装備されているだけあって足元が引き締まって見える。

 5086レを撮影後は、箱根登山鉄道へと向かった。引退間近といわれている旧型車たちを撮らねばと張り込んだのだが、どうやら午前中は運用に入っていない模様だった。しかたあるまいと、ここは別の”原色”を求めて伊豆半島を南下。伊豆急行線伊豆稲取の俯瞰へと駒を進めた。伊豆といえば、”踊り子”である。特急踊り子に使用される大宮所属の185系は数年前から登場時塗装であるホワイトにグリーンのストライプの装いに復刻されている。新型車両の導入も迫る中、撮りにいかないという手はない。

185系 踊り子105号 伊豆稲取

 晴れると太平洋は色がまこと素晴らしい。山と海の間を縫って踊り子185系がやってきた。登場当時、それまでのクリームと赤の国鉄特急色とは一線を画したこのグリーンストライプ塗装。登場から40年弱たつ今見ても色あせない斬新さだ。

 伊豆稲取で撮影した後は少々ほかの撮影地にも寄り道しつつ、箱根登山鉄道へ再度戻ることにした。午前中訪問時にこの日の運用を調べた際に、どうやら夕方あたりから旧型車たちが動くらしいという情報を得ていたからだ。

箱根登山鉄道モハ2形109号

 国道1号線を車で北上していると、小涌谷箱根登山鉄道の線路をまたいだ。どうやらこの踏切からなら少しばかり撮れそうだ。とりあえず運用確認がてら撮影しておくか、ということで友人と車を止めて撮影に向かうとすぐに踏切がなって、強羅行きの電車がやってきた。するとどうだろう、やってきたのは開通100周年記念で登場当時の緑の”原色”に復刻された109号を先頭にした編成だった。緑に塗られたその姿はどこかしらかつての東急の旧型車にも見える。新緑をバックに深いグリーンがいい味を出してくれた。この後もしばし箱根登山鉄道で撮影し、日が落ち始めるころ帰路へとついた。”原色”浪漫を満喫できた充実の休日であった。

 現在箱根登山鉄道は令和元年東日本台風による被害で運休が続いている。つい先日、今年秋ごろの暫定復旧を見込んでいるとの発表があったが、暫定復旧後も被害が甚大であった区間の新線付け替えなどが続くと聞き及んでいる。長い道のりだろうが、一日も早い完全復活を願うばかりである。

Report No.146 赤い星の巨人

 蒸気機関車の世界最速記録といえば、流麗な流線型のボディが美しいイギリスLNERのA4形マラード号が保持する202.8km/hである。この記録は第二次世界大戦直前の1938年7月3日に達成された記録だ。この約2年前の1936年5月11日にはドイツ国鉄05形002号機が200.4km/hという史上初の蒸気機関車での200km/h超えを記録している。当時の欧州では各国の国鉄、鉄道会社が自らの鉄道技術の粋を集めてこのような高速化を競い合っていた。このような200km/hという大台を目指し開発競争が行われていたのは、当時既に100km/hを超す最高速度をもつ蒸気機関車が欧州には数多く存在したからこそであろう。

 第二次世界大戦前後、ドイツ国鉄01形に代表されるような急行用旅客蒸気機関車は最高速度120km/h超での営業運転が行われており、欧州主要国ではすでに超高速とは言えずとも、現在の日本の在来線程度の最高速度で運転されていた。ただ、これはあくまでイギリス、ドイツ、フランスといった欧州主要国での話であり、チェコハンガリーといった国では最高速度100km/h程度にとどまっていた。特にチェコ・スロバキア(当時)では、戦後、既存の蒸気機関車の性能不足が顕著となったため、新型蒸気機関車が待ち望まれていた。

 そんな中1954年に登場した一形式が498.1形である。動輪径1830mmのD級機、最高速度は120km/h、出力2000kWと当時の欧州諸国の蒸気機関車と比べても遜色ない仕様になっている。さらには、諸外国では採用例の少なかった機械式投炭装置を搭載しており、決して時代遅れなどではなかった。特筆すべきは1964年8月27日に、498.106がチェコ・スロバキア蒸気機関車としては最速の162km/hを記録していることだろう。マラード号のように超高速を求めて設計されたわけではないこの機関車が、このような最高速度を達成できたというのはチェコ・スロバキアの鉄道技術の向上を物語っている。

 現在498.1形は、速度記録を保持する106号機、動態運転可能の104号機、106号機の部品取りとして112号機の3両が保存されている。残念ながら106号機は2003年に検査切れとなっておりチェコの博物館に静態展示となっている。104号機はスロバキアブラチスラバに拠点を置く保存会が運用をしており、時たま臨時列車を本線で牽引してくれる。

 2019年5月のGW遠征ではVSOEのブダペスト便の翌日に498.104牽引の団体臨時が運転されるという予定になっており、VSOE撮影後の熱も冷めあらぬうちに、EC272 Metropolitanに飛び乗りブダペストを後にしてスロバキアへと向かった。スロバキアででの撮影ポイントは Report No.144 ゴーグル - ぽっぽ屋備忘録で紹介した地点にしていた。地図を検索してみていただけるとわかりやすいのだが、実はこの地点、2つの路線が合流する地点で、この2つの路線はどちらもHronská Dúbravaで二股に分かれた路線が再合流するポイントになっている。当初の運転計画では104は、ここからZvolen、Banská Bystricaを経由し北上することになっていたのだが、どうやら直前に計画変更があったらしく、Zvolenで方向転換をしてBanská Bystricaを経由せず北上するルートに変更されていたのだった。Report No.144で紹介したゴーグル機関車牽引の列車はBanská Bystricaからの列車であり、Banská Bystrica経由しない列車は撮影地の背後の線路を通ってくる。だが撮影時、経路変更があったことなど知る由もなく、104号機を待っていた。撮影していると現地の鉄道ファンもやってきて同じアングルで構え始めたため気楽に待っていたのだが、しばらくして現地ファンは乗ってきた車で大慌てで撤退。何事かと思ってふと彼らが去っていった方向を見ると、立っている撮影地の背後へと続く線路の彼方におそらく蒸気のものと思しき白煙が立ち上っていた。

まずい!やられた!経路変更だ!そのとき初めてことの重大さに気付いたが三脚もしっかり据えて構えているだけにすぐに大移動するのは困難であった。だが気づけばとっさにサブ機を片手に撮影地の丘をおりてそれまで背後だった線路の反対側へと駆け出していた。

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 構えてすぐ、濃紺の巨体に赤い星を付けた498.104が猛然と疾走してきた。胸の鼓動がこれでもかというほど体の中を駆け巡る中、必死でシャッターを切った。思っていた結果とは異なってしまったが、なんとか貴重な本線運転を記録できた。とっさの判断をほめたい気持ちでいっぱいあった。

 これにて2019年GW遠征はすべての撮影目標を回収し、この日は早々にブラチスラバに引き上げ、翌日昼のウィーン発の飛行機で一路日本へと帰国した。もっとも、帰りはウィーン→バンコク台北→ソウル→釜山港博多港→新幹線とまたまた面倒くさいルートでの帰国ではあったのだが・・・。

 

Report No.145 海の谷

 最後の国鉄特急色485系A1+A2編成が現役から消えて既に3年以上がたつというと、字面そのものでは、そう遠くない昔のように思えるのが不思議だ。A1+A2編成が引退する前年は新潟のT18編成の引退があった。T18編成といえば最後に残ったカニ目ヘッドライトの1500番代クハ481-1508が印象的な編成であった。それもあってか、引退に際しては信越本線北越急行ほくほく線上越線信越本線羽越本線白新線と走行する大々的な引退記念団体臨時が設定された。T18編成は修学旅行臨やその他団体で時たま関西に来ていたこともあって、何度かお目にかかったことがあった。ゆえに最後のこの引退ツアーでぜひとも最後の雄姿を拝もうと、2015年5月23日、はるばる新潟の地まで友人たちと赴いたのであった。

 撮影地の候補としてはいくつかあったのだが、いかんせん夏目前の5月下旬であることから、どうにも運行ダイヤを見るにどこも太陽高度が高い。皆々思うところはあったのだが、ここはやはり信越日本海側らしい場所を狙うのがいいのではないか、ということで、米山~笠島の国道八号線俯瞰へと向かった。

 撮影地についてみると、海上はすこし靄がかかっているが、水平線は視認できる程度のものだったので、ここで撮影を行うことを決定。各々カメラを構えたのであった。この場所は国道8号線の橋梁から撮影する場所であり、かなりの高さのある場所である。そしてまた国道にかかる橋であるので、頻繁に大型トラック等が通過する。トラックが通過するたびに大きく振動するわけで、少々肝が冷えた。

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 待つこと一時間ほどだっただろうか。トンネルの奥から唸るモーター音と共にクリームと赤の485系が飛び出してきた。谷間にうなりを反響させつつ日本海を背に国鉄特急色が行くサマはこれ以上ない思い出となった。