ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.139 ラミナーツカ

 平成から令和に元号が変わった今年、天皇陛下の即位に際して所謂”ゴールデンウィーク”が今までで最長の10連休となった。10連休ともなればこの長期休暇を利用して国外に飛びたいと思うのが海外鉄の端くれとしての性。だが長期休暇ということで日本発の航空券は大暴騰をしており、どうにか韓国・ソウル発着で押さえることでなんとか渡航の足掛かりを得ることができた。まずLCCでソウルへ飛び、そこから台北バンコクを経由してオーストリアはウィーンへと飛び、オーストリアチェコ・スロバキアハンガリーを巡るというなかなかにハードな計画となった。

 ソウルからの飛行機では日本人を見かけることはほとんどなかったが、バンコクからの乗り継ぎの便は驚くほど日本人だらけで、いかに日本の社会が休みにくいのかを考えさせられた。そしてこのバンコクからの便には偶然にも知り合いが乗り合わせており、バンコクでしばし談笑させていただいた。

 十数時間のフライトの後オーストリア・ウィーンに到着したが、ウィーンについても目に付くのは日本人ばかり。興ざめしてしまう前にとそさくさとプラハ行きのRailjetに乗って初日の撮影に向かった。この日はウィーン~プラハの幹線の一部であるBřeclav–Znojmo線のŠakvice〜Popiceにて、各種国際列車や貨物を狙った。この路線はプラハ方面、さらにはドイツ・ドレスデン方面へと抜ける大幹線であり、オーストリアのみならず、スロバキアハンガリーなどからも国際列車が直通して来る。

 今回の遠征でここに来た理由の一つは”ラミナーツカ”と呼ばれるチェコ・スロバキア国鉄時代に製造された機関車を撮影するためであった。ラミナーツカとは”積層されたヤツ”といったところの意味で、外装の一部にガラス繊維積層強化プラスチックを使用していることに由来している。

CSD S489.0 001

 時折雨交じりという散々な天気の中ではあったが、撮影していると派手な色をした機関車が遠目に見えた。ラミナーツカだ!と少し歓喜しながらファインダーをのぞくと、そこに現れたのはまさかのS489.0 001、つまり1号機である。1号機は番号、塗装ともにチェコ・スロバキア国鉄時代のものに復刻されている所謂"ネタ罐"。あいにくの天気ではあったが、運よく初号機を記録できたことは不幸中の幸い(?)であった。

ZSSK Cargo 240

 昼を過ぎると、時折晴れ間が見えるようになり、その晴れ間をぬってまたしてもラミナーツカ牽引の貨物がやってきた。今回はZSSK Cargo所属の240形。大型な前面パノラミックウィンドウとあって日差しが厳しいのだろうか、運転席窓上部には新聞紙で即席の日よけが貼り付けられていた。

 この後はRailjetなどを撮影し、1日を締めくくった後、ローカル列車と急行列車を乗り継ぎ、音楽の都、プラハへと向かった。

Report No.138 重連

近年のダイヤ改正で愛知機関区所属DD51の運用の多くがDF200に置き換えが進み、DD51重連で荷を引く姿は珍しいものになりつつある。車齢を考えれば当然のことであるのだが、重連で荷を引く勇ましい姿が近い将来記録の中の存在になってしまうのは少し寂しいものである。

 DD51重連で荷を引く運用の一つに紀勢本線のロングレール輸送がある。ただ、自分にとっては往々にして運転ダイヤや運転時期の組み合わせが悪くなかなか紀勢本線内で記録できずにいた。更にいえば紀勢本線内で撮影できる時間帯のものとなると多くの場合、白浜以北の複線区間の場合が多くどうにも重い腰を上げられずにいたのだった。

そんな折、昨年の12月に入って友人から「新宮朝着でロングレール輸送の運転があるらしい」との知らせがきた。新宮に早朝に到着するダイヤでの運転はめったにないため、これは天候に期待できるならば行かなければならないという話になった。

運転は14日金曜日夜から15日土曜日朝にかけてということであったので、14日の夜に会社上がりの友人に車で拾ってもらい、東生駒駅で他の友人と合流し一路南紀へと向かった。天候予報は快晴。せっかくの白浜以南での運転とあって古座川の単線ガーター橋で撮るのがいいのではないだろうか、という話になった。

 夜明け前に古座駅周辺に到着し、撮影地に行ってみると思いのほか先客は少なく、場所取りが3つほどある程度であった。これはラッキー、と早々に場所取りをして朝を待つことにした。 朝日が昇りはじめたころ、ギャラリーが集まる前にいそいそと準備をはじめDD51を待ち受ける。気温は12月とあって低め、空は快晴。サプライズでやってきたキヤ141や287系くろしお、105系普通列車を眺めつつ待っていると続々とギャラリーも集まってきた。どうやら聞く話によれば古座ヴィラの俯瞰は満員御礼なようだった。

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 完璧に整えられた舞台に、朝日を浴びてDD51重連牽引のロングレール輸送列車がやってきた。少しエンジンをふかしつつ鉄橋を轟音と共に駆け抜けていく。冬の朝、早起きは三文の徳といったところだろうか、最高の一枚を撮ることができた。

 

Report No.137 遠戚

 国鉄DD54ディーゼル機関車といえば、かつて欠陥機関車とあだ名され、法定耐用年数の18年を満たさずして引退した曰く付き機関車である。DD54は当時西ドイツで既に実用化されていたV160形ディーゼル機関車の設計を元に開発されたものだった。だが、実際に運用開始してみると、他形式と一部設計を共通化したことや当時の日本の製造技術、保守技術に対してオーバースペックであったことに起因して悪名高い推進軸破損落下事故、所謂「棒高跳び」事故を起こしたり、変速機の故障を引き起こしたりするなどの不具合が相次いでしまった。これら不具合もあって、DD54は前述のように早期引退ということになってしまったのだが、ドイツ本国ではV160形が大きく成功をおさめ、少しずつ数を減らしているがいまだに現役で活躍している。

  現在ドイツ周辺で運用されているV160形ファミリーの大多数は218形と呼ばれるタイプのものである。218形の現在の主戦場はドイツ南部バイエルン州とドイツ北部ハンブルグ周辺の2つである。特に、バイエルン州で運用されている218形はスイス方面への国際列車の牽引に使用され花形運用を保っている。だが、近年ドイツでは既存路線の電化・高速化工事が進んでおり、この218形牽引のスイス国際列車が走る経路も一昨年より電化工事が開始された。この電化工事に伴って国際列車の走行経路が通常は経由しない曲線の多い非電化亜幹線Allgäu線に迂回されることになった。この迂回国際列車を記録するため、昨年の欧州遠征にてドイツ南部はLindauを起点に撮影に向かった。

 この線区は人よりも牛のほうが多いのではないかと思うほど畜産が盛んな地域で、多くの駅が廃止されてしまっているため、撮影地まで最寄り駅から5km以上というのがザラという状況になっている。そこで、Lindauで友人らとレンタサイクルを借りて列車で輪行して最寄り駅Röthenbachからほかの列車も撮影しつつサイクリングをすることにした。これが一番楽だと思っていたのだが、このあたりは緩やかな丘が延々と続くアップダウンの激しい区間で思いのほか汗だくになってしまった。

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 1時間強かけて到着したOberthalhofenの撮影地で狙うはスイスからの国際列車EC195 ミュンヘン行。のどかな放牧風景や行きかうローカル列車を眺めること2時間。定刻より20分ほど遅延して218重連に引き連れられて1等展望車を含むスイス客車8両のEC195がやってきた。DD54の遠戚にあたる赤い機関車の重低音と赤帯美しいスイス連邦鉄道客車、なんとも素晴らしい情景をドイツで堪能することができた。

 

Report No.136 箱庭

 夏によく聞かれる定番の質問といえば「行くべきは海か山か」ではないだろうか。海にも山にもそれぞれの魅力がありなかなか決めることのできない難問だ。鉄道写真でも海を背景にするか山を背景にするか、というのは定番の議題だろう。昨年の山陰本線迂回貨物でもこれは大きな議題の一つだった。だが山陰本線のよいところは、海も山も背景にできる撮影地が数多く存在していることだ。そのうちの一つ、五十猛~仁万の俯瞰でのカットは山陰迂回貨物でぜひとも押さえたいものの一つだった。遠景に島根半島の山々を望み、手前には白い砂浜と緑の築堤と、さながら鉄道模型ジオラマのような”箱庭”情景をDD51が牽引する貨物列車が走るわけなのだからファンとしては垂涎の情景である。

 五十猛~仁万で撮影するチャンスは意外と早く訪れた。運転が開始された4日後の9月2日、友人が有給をとって山陰迂回に行くということでこれに便乗させて山陰へ向かった。1発目を日原俯瞰で”山”を主題におさえていたので2発目は満を持しての五十猛での撮影となった。五十猛の撮影に着くと既に鈴なりの人出で立ち位置を見つけるにも一苦労のあり様だった。なんとか最上段付近で場所を確保し照り付ける夏の太陽を浴びながら小一時間列車を待つ。待っている間にもどんどんとギャラリーは増え、ついには撮影地背後の木に登って撮るギャラリーまで現れ始めるほどで、この迂回貨物の注目度を如実に表していた。

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 この日は上りが少々遅れていたこともあり、交換の都合で下りにも遅れが波及していた。定刻より少し遅れて、快晴の下、赤いDD51につれられてコンテナ貨物が軽やかにフレームに滑り込んできた。夏の白波を横目に山を望みながら走りゆくその姿を何度を肉眼に焼き付けながらシャッターを押した。

Report No.135 歴史街道

 第一次世界大戦終結オーストリア=ハンガリー二重帝国が解体されるまでスロベニアオーストリア領であった。オーストリア=ハンガリー帝国がスロベニアを支配する中、1869年、スエズ運河が開通し地中海沿岸の港の地位は大きく向上した。当時帝国は現在のイタリア・トリエステ港を領地としており、既にウィーンとトリエステを結ぶ鉄道が開通していたが、スエズ運河開通によって更なる物流量の増加が予測された。このため、トリエステオーストリアを結ぶ第2の鉄道路線を建設することになった。そして1906年に開通したのが、スロベニアのイェセニツェ(Jesenice)からジュリア・アルプスを抜けイゾンツォ川(Isonzo)を抜けてゴリツァ(Gorica)を経由しトリエステへと至るボーヒン鉄道(Bohinj Railway)である。山々の緑に囲まれる車窓、ジュリア・アルプスを貫く全長6.3kmのトンネルやイゾンツォ川を超える大アーチ橋のソルカン橋梁など風光明媚な路線である。今でこそ数往復の貨物列車を除けば1両や2両の気動車が3時間に1本程度行きかうローカル線であるが第一次世界大戦では激戦地となったイゾンツォ川周辺への兵站輸送などで活躍した歴史の生き証人ともいえる路線である。

 このボーヒン鉄道では、夏季にスロベニア鉄道博物館が所有する蒸気機関車と旧型客車を用いて観光客向けの動態保存列車が走っている。昨年夏の欧州遠征では偶然にもちょうどよい具合でこの運転があることがわかっていたのでコペル(Koper)周辺での撮影の翌日、これを撮るためモスト・ナ・ソチ(Most na Soči)に宿を取り一日蒸気を追いかけることとした。モスト・ナ・ソチはイゾンツォ川とイドリカ川、バチャ川の3つが合流する急峻な谷間の街で、第一次大戦中は激戦地となった場所にほど近い場所である。

 この動態保存運転で使用される機関車は、第二次大戦中、ナチスドイツ占領下で導入された戦時機関車として有名なドイツ国鉄52形の同型機JŽ33(現SŽ33)、ユーゴスラビア王国時代に導入されたJDŽ06、オーストリア=ハンガリー帝国時代に導入されたSŽ25の三機のいずれかで、客車は2軸客車を主とする編成というなかなか豪華なものである。

 牽引機がなにかは公式で発表がないので完全に運任せなのだが、せっかくなら日本でお目にかかることができないE級機であるSŽ33(JŽ33)牽引であることを祈りつつ運転日当日は少し早めに宿を後にた。まずは宿すぐのモスト・ナ・ソチ橋梁を俯瞰するポイントへ向かった。モスト・ナ・ソチ橋梁はイドリカ川とバチャ川の合流点の上を渡るレンガアーチ橋とトラス橋が組み合わさった橋梁である。

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 朝露に濡れた斜面を登って待つこと2時間。定刻より少し遅れてSŽ33が逆機で古典客車たちを引き連れて橋梁の上に現れた。橋を渡ってすぐのモスト・ナ・ソチ駅で停車し撮影タイムが取られるため減速しつつ通過。迫りくる急峻な山々をぬってレンガアーチを渡ってくる蒸気機関車牽引の客車列車、なんと豪華な光景だろうか。モスト・ナ・ソチ駅での撮影タイムに少し便乗した後は車を走らせて次なる撮影地、ソルカン(Solkan)橋梁へ。

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 ソルカン橋梁は、第一次世界大戦時、オーストリア帝国軍の撤退時に川を渡るアーチ部が爆破され、のちに復旧された経緯を持つ橋梁である。これを峠道のパーキングエリアから俯瞰するポイントで列車を迎え撃った。第一次世界大戦の生き証人たる橋梁の上を第二次大戦期を代表する機関車であるドイツ国鉄52形の姉妹機が牽引する列車が走るというなんとも歴史の重みを感じる光景に夢中でシャッターを切った。

 この後は3日間のスロベニアでの撮影でお世話になったレンタカーを返却し、普通列車にのって復路の撮影へと向かうことにしていた。返却地のレンタカー店から駅までが少々距離があったのだが、レンタカー店の店員に交渉すると快く駅まで送迎してくれた。送迎代がわりに少しチップを弾んで店員と別れたあとは、ノヴァ・ゴリツァ(Nova Gorica)駅で復路まで停車中の蒸気列車をスナップ。

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 宮殿のような駅舎を前に古典客車たちが止まっているのを見ているとあたかも戦間期にタイムスリップしてしまったかのような感覚になった。かつて第二次大戦中、このノヴァ・ゴリツァ駅はクロアチアにあったナチス強制収容所へのユダヤ人や囚人の輸送の要衝でもあった駅である。ここにドイツ戦時型機関車52形姉妹機率いる列車が止まっているという姿は些か考えさせられるものがあった。

 さて、この復路に先行する列車で向かったのはアーウチェ(Avče)駅近くのイゾンツォ川のダム湖沿いの撮影地。ここも他同様のレンガアーチ橋がかかる場所なのだが、この橋梁はダム湖の縁をかすめて通る所謂「渡らずの橋」で、ダム湖に反射する姿が美しい撮影地である。午前の撮影とはうって変わって快晴の中、幾人かのギャラリーがいるだろうと思いつつ撮影地へ向かったのだが、予想に反してギャラリーはゼロ。同行の友人たちとそれぞれ思い思いのアングルを確保して列車を待った。

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 太陽がだいぶ西に傾きだしたころ、山間にドラフト音と軽やかなジョイント音が聞こえてきた。そしてつかの間、大陸の大型蒸気らしい薄目の煙を吐きながら蒸気列車が絶景の舞台の上に現れた。大型E級蒸気と色とりどりの客車、苔むすレンガアーチ橋、絵画のようなその情景はまさにシャッターを切っていることすら忘れる絶景だった。

Report No.134 渓谷の朝

 山口線山口線たる名所といえばどこだろうか。そんなことを山陰迂回貨物の運転が始まる直前あたりから考え始めた。津和野以南のベタなところで言えば、津和野の太鼓谷稲成や長門峡の鉄橋あたりだろうか。だが今回の迂回貨物の運転ダイヤを見ていると上りに関してはどうも津和野以南ではなかなか露出が厳しく、徳佐からやっと太陽光線が当たるか、というような状況であった。では津和野以北ならどこが山口線らしいだろうか、ということでかつての岡見貨物の作例をしらみつぶしに調べていった。津和野以北の岡見貨物の撮影地といえば本俣賀のストレートと日原の鉄橋周辺が二大撮影地といえるわけだが、どちらも岡見貨物廃止後はこれといって珍しい被写体が走ったわけでもないためほぼ作例がない状況だった。とりあえずこれは一度行ってみて考えるしかないということで運転開始日に下り貨物を撮影する傍ら車から沿線風景を眺めていたのだがどうにも線路際は荒れ放題のところが多く、本俣賀は望み薄だろうという結論に至った。残るは日原鉄橋の俯瞰ということで撮れるかどうかは不明だが上り貨物運転開始後、アタックしてみることにした。

 日原の俯瞰撮影地のだいたいのめぼしはついていたのだが、アクセスは航空写真からうっすら見える轍のみしかわからず手さぐりに近い状態での登山となった。早朝からいい汗をかきつつ山を登った先でぱっと眺望が開けた。蜘蛛の巣まみれになってはしまったがどうにかこうにか正しい場所にたどり着くことができた。これが違う場所だったらと思うと悲惨だが終わり良ければ総て良しとはよく言ったものだ。キハ40の普通列車などを撮りつつ構図を組む。気付けばいつの間にか15人ほどのギャラリーが集まっていた。皆が今か今かと貨物の通過を待ったのだが通過予想時刻を過ぎても来ない。よく考えると交換するはずの普通列車も来ていない。どうやら山口線内での濃霧の影響で遅れが出ているということのようだった。

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遅れること約20分、聞きなれたDD51のエンジン音が山間にこだまし始めた。機関車+コンテナ車6両という短い組成だが再びここで貨物を撮れるということを誰が予想しただろうか。ゆっくりと鉄橋を渡る列車に夢中でシャッターを切った。

Report No.133 カルストの崖

 地理の授業を受けたことがる方でなくとも「カルスト地形」という名称を一度は聞いたことがある方は多いかと思う。カルスト地形の「カルスト」という名の由来はスロベニア西南部およびイタリア北東部のクラス地方が語源である。というよりも、そもそもこのカルスト地形というのはこのクラス地方で見られる石灰岩質の地形から生まれた地理用語なのである。石灰岩は風化こそしにくいが雨水によって浸食されるため石灰岩質の土地では浸食によって陥没地や崖、鍾乳洞など様々な地形を生まれる。それらこそがカルスト地形なのである。さてこのカルスト、クラス地方、ずばり今回の欧州遠征で訪問したPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間もその一部なのである。前回および前々回(Report No.132 ブリジット - ぽっぽ屋備忘録 Report No.131 断崖絶壁の生命線 - ぽっぽ屋備忘録)でお伝えしたこれら急峻な地形は石灰岩が大きな要因となっているのである。

さて、今回はReport No.132の続き、この峠区間での撮影のフィナーレとなるレポートである。この日は午後を通してアドリア海側は突き抜けるような青空で太陽光線が痛いほどだった。午前中から午後にかけて少なくとも5機のゲンコツことSŽ363がKoper港へと下っていたが再び峠を登ってきたのは2両のみであった。SŽ363は首都リュブリャナに配置されている機関車でありKoperに下ったからには帰ってこなくてはならない。そこで、晴れが続いていることもあり、撮影を続行することになった。かなり日が西に傾いてきたこともあり、順光であるČrnotiče駅近くの崖下S字俯瞰へと向かった。林道を抜けて崖っぷちへたどり着いてセッティング。下り列車が何本か通過したが一向にのぼり列車がやってこない。まだまだ日が落ちるわけでないのはわかっているがあまり太陽が西に傾きすぎると自分たちが陣を張っている崖の影が線路へ落ちてしまう。伸びてくる影におびえながら待っていると麓からもはや聞きなれた重低音が響いてきた。はるか眼下の林の隙間に目を凝らすとゲンコツがコンテナ貨物を率いているのが見えた。

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 それから10分近くたっただろうか。夕日に赤く染まった石灰岩の崖のすそを縫うように走るコンテナ貨物。茜色に染まったゲンコツがその鼻っつらを浮かび上がらせながら先頭を務める。この区間での撮影を締めくくるにふさわしい感嘆のため息が止まらない1コマとなった。