ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.140 ボヘミアンPCCカー

 ボヘミアとは現在のチェコ共和国の西半分、ひいてはポーランド南部からチェコ北部にかけての地域を指すラテン語のいにしえの地名である。このボヘミアの地、チェコ共和国プラハには、かつてタトラ国営会社スミーホフ工場というものが存在した。ここでは主に路面電車やバスの製造を行っており、所謂「タトラカー」の愛称で知られている旧共産圏でよくみられる路面電車の一族が製造されていた。このタトラカーの一派ほとんどに共通する特徴として、片運転台、片側ドアなどがあげられる。博識な方はここで既にお気づきだろうが、これらの特徴はアメリカ・PCCカーと共通するものである。それもそのはずで、元々このタトラカーは第二次大戦後の路面電車復旧のためにPCCカーをライセンス生産したものだったからである。タトラカーの長男坊であるタトラT1の製造が開始されたのは1952年で、その後ソ連崩壊前夜1987年のT4形生産終了までこのPCCカー由来の路面電車たちが東側各国に輸出されていった。東西冷戦真っただ中という時代に共産圏でアメリカ資本主義の技術の流れをくむ車両が走っていたわけだが、意外と交通政策部局ではイデオロギーの対立はなかったのかもしれない。(もっとも、日本製のサハリン向け気動車D2形は導入当時レーニングラード製国産車両とされたいうような”噂”もあるため完全にイデオロギー対立がなかったワケではないのだろうが・・・。)

  今年のゴールデンウィークは東欧中心の日程を組んでいたため、プラハで2日ほどを過ごした。その間少しばかり街中でボヘミアンPCCカーを撮影することとした。ひとまず、Praha Masarykovo(プラハ・マサリコヴォ)駅併設のホテルに荷物を預け市内へと繰りだした。

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 まずはマサリコヴォ駅前の停留所にて。こちらはタトラT3形系列の重連。マサリコヴォ駅は第二次大戦末期に起こったプラハ暴動の際、ナチス武装親衛隊によって占拠され降伏したレジスタンスや市民53名が虐殺された駅でもある。それも今は昔。このように道端でのんびりと路面電車を撮影できる平和な時代を築くため尽力した人々に感謝しなければならない。

Praha Tram Tatra T3

 マサリコヴォ駅を後にし、街中をぶらり。プラハは第二次大戦中に絨毯爆撃を受けるなどしていながらも、歴史的な街並みが未だ数多く残っており、間違いなく歩いていて楽しい街の一つだろう。そんな中やってきたのはタトラT3R PLFとよばれるT3形を部分低床にした車両。金太郎塗装な赤帯が愛らしい。

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  お次はまた少し歩を進めてルネッサンス様式が特徴的なホテル・オペラを背景に一枚。タトラカーの隣をかつてはチェコの一大財閥シュコダの一端であったシュコダ・オート(現在はフォルクスワーゲン傘下)製のタクシーが並走してきた。

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 最後は有名なプラハ城バックで〆となった。現在はチェコ共和国大統領府として使われているプラハ城は、9世紀の築城以来、20世紀初頭までその時代ごとの統治者が時代ごとの建築様式で増改築を進めていった。中央に見えるは14世紀から20世紀初頭まで6世紀をかけて増改築が進められた聖ヴィート大聖堂。そしてその周りを囲むは15世紀に築かれた旧王宮と12世紀に建設が始められた聖イジー教会である。そんな歴史あるプラハ城を後ろに20世紀後半生まれのタトラT3形が行く。歴史の重みを感じながら美しいプラハの街を楽しんだ一日であった。