ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.134 渓谷の朝

 山口線山口線たる名所といえばどこだろうか。そんなことを山陰迂回貨物の運転が始まる直前あたりから考え始めた。津和野以南のベタなところで言えば、津和野の太鼓谷稲成や長門峡の鉄橋あたりだろうか。だが今回の迂回貨物の運転ダイヤを見ていると上りに関してはどうも津和野以南ではなかなか露出が厳しく、徳佐からやっと太陽光線が当たるか、というような状況であった。では津和野以北ならどこが山口線らしいだろうか、ということでかつての岡見貨物の作例をしらみつぶしに調べていった。津和野以北の岡見貨物の撮影地といえば本俣賀のストレートと日原の鉄橋周辺が二大撮影地といえるわけだが、どちらも岡見貨物廃止後はこれといって珍しい被写体が走ったわけでもないためほぼ作例がない状況だった。とりあえずこれは一度行ってみて考えるしかないということで運転開始日に下り貨物を撮影する傍ら車から沿線風景を眺めていたのだがどうにも線路際は荒れ放題のところが多く、本俣賀は望み薄だろうという結論に至った。残るは日原鉄橋の俯瞰ということで撮れるかどうかは不明だが上り貨物運転開始後、アタックしてみることにした。

 日原の俯瞰撮影地のだいたいのめぼしはついていたのだが、アクセスは航空写真からうっすら見える轍のみしかわからず手さぐりに近い状態での登山となった。早朝からいい汗をかきつつ山を登った先でぱっと眺望が開けた。蜘蛛の巣まみれになってはしまったがどうにかこうにか正しい場所にたどり着くことができた。これが違う場所だったらと思うと悲惨だが終わり良ければ総て良しとはよく言ったものだ。キハ40の普通列車などを撮りつつ構図を組む。気付けばいつの間にか15人ほどのギャラリーが集まっていた。皆が今か今かと貨物の通過を待ったのだが通過予想時刻を過ぎても来ない。よく考えると交換するはずの普通列車も来ていない。どうやら山口線内での濃霧の影響で遅れが出ているということのようだった。

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遅れること約20分、聞きなれたDD51のエンジン音が山間にこだまし始めた。機関車+コンテナ車6両という短い組成だが再びここで貨物を撮れるということを誰が予想しただろうか。ゆっくりと鉄橋を渡る列車に夢中でシャッターを切った。

Report No.133 カルストの崖

 地理の授業を受けたことがる方でなくとも「カルスト地形」という名称を一度は聞いたことがある方は多いかと思う。カルスト地形の「カルスト」という名の由来はスロベニア西南部およびイタリア北東部のクラス地方が語源である。というよりも、そもそもこのカルスト地形というのはこのクラス地方で見られる石灰岩質の地形から生まれた地理用語なのである。石灰岩は風化こそしにくいが雨水によって浸食されるため石灰岩質の土地では浸食によって陥没地や崖、鍾乳洞など様々な地形を生まれる。それらこそがカルスト地形なのである。さてこのカルスト、クラス地方、ずばり今回の欧州遠征で訪問したPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間もその一部なのである。前回および前々回(Report No.132 ブリジット - ぽっぽ屋備忘録 Report No.131 断崖絶壁の生命線 - ぽっぽ屋備忘録)でお伝えしたこれら急峻な地形は石灰岩が大きな要因となっているのである。

さて、今回はReport No.132の続き、この峠区間での撮影のフィナーレとなるレポートである。この日は午後を通してアドリア海側は突き抜けるような青空で太陽光線が痛いほどだった。午前中から午後にかけて少なくとも5機のゲンコツことSŽ363がKoper港へと下っていたが再び峠を登ってきたのは2両のみであった。SŽ363は首都リュブリャナに配置されている機関車でありKoperに下ったからには帰ってこなくてはならない。そこで、晴れが続いていることもあり、撮影を続行することになった。かなり日が西に傾いてきたこともあり、順光であるČrnotiče駅近くの崖下S字俯瞰へと向かった。林道を抜けて崖っぷちへたどり着いてセッティング。下り列車が何本か通過したが一向にのぼり列車がやってこない。まだまだ日が落ちるわけでないのはわかっているがあまり太陽が西に傾きすぎると自分たちが陣を張っている崖の影が線路へ落ちてしまう。伸びてくる影におびえながら待っていると麓からもはや聞きなれた重低音が響いてきた。はるか眼下の林の隙間に目を凝らすとゲンコツがコンテナ貨物を率いているのが見えた。

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 それから10分近くたっただろうか。夕日に赤く染まった石灰岩の崖のすそを縫うように走るコンテナ貨物。茜色に染まったゲンコツがその鼻っつらを浮かび上がらせながら先頭を務める。この区間での撮影を締めくくるにふさわしい感嘆のため息が止まらない1コマとなった。

Report No.132 ブリジット

   友達や知り合いを「あだ名」で呼んだことがある人は多いかと思う。船や飛行機、鉄道車両もまた愛着やはたまた侮蔑をこめて愛称やあだ名がつけられることがしばしばある。国内で有名な例で言えば、キハ81がブルドッグ419系が食パンと呼ばれていたことなどがあげられるだろうか。こういったことは海外でも同じで、ヨーロッパでシーメンス製ユーロスプリンターシリーズのES64U2型機関車がタウルスという愛称で呼ばれている例などがある。

 さてさて、少し前置きが長くなってしまったが、スロベニアに「ブリジット」という愛称で呼ばれている機関車がいる。スロベニア鉄道363形(SŽ363)である。由来となったのは1950~1960年代にかけて名をはせたフランス人女優、ブリジット・バルドー。なぜこの愛称がついたかといえば、この機関車がフランス国鉄CC6500形を原設計とするフランス・アルストム製の輸入機関車だからである。原型となったCC6500はCC40100の系譜の”潰れた鼻”、日本ではゲンコツと呼ばれた前面デザインを持つ機関車であり、363形もこのデザインを受け継いでいる。1975~1977年に39両が当時まだユーゴスラビアであったスロベニアに導入されその後全車がスロベニアの独立にともないスロベニア鉄道へと移籍し、現在も全車が活躍を続けている。

 さて、今回は前回のレポート(Report No.131 断崖絶壁の生命線 - ぽっぽ屋備忘録)の続きである。前日、Prešnica–Koper線で撮影したあと地元スーパーへ行き夜食と朝食を買い込んでČrnotiče駅横でレンタカー車中泊といこうとしていたのだが、駅へ戻って夕食をしていると地元の警察官がやってきて、君たちここで何をしているんだね、どこへ泊まるんだ、ともしもしされてしまった。なんだかそういえば渡航前に調べていた時にスロベニアは指定地以外野宿禁止というのを見た気もする。仕方がないのでその場はなんとか適当にやり過ごし近隣の高速道路のPAで夜を明かすことにしたのだった。

 翌日、少し早めにPAを後にし、早朝順光となる撮影地へ向かったのだがどうも様子がおかしい。撮影地に入る道にトレーラーやキャンピングカーが大量に止まっていて道をふさいでいる。仕方がないので少し離れた別の場所からアプローチしようとしたのだが、ずいぶんと遠いうえ朝露でビショ濡れになってしまった。そしてこともあろうに天気は振るわない曇天。ひとまず訳がわからないので元の道に戻ってキャンピングカーから出てきた中年男性に話を聞くとどうやらこの集団は映画の撮影隊らしくここの先で撮影をするので今日はここには入れないといわれてしまった。残念だが天気も天気なので今回はここでの撮影をあきらめて2つ目の撮影地に向かった。ところがどうやらアクセスの道を間違えたらしくどう見ても道とは名ばかりの川底のようなゴツゴツとした岩ばかりの荒道に出てしまったため車を一旦止めて朝食をとって作戦を練り直すことにした。ひとまず撮影までそう遠くないと踏んで車は現在地に駐車しておき山を下って撮影地に向かったのだがこれが大きな失敗だった。川底のような、とはまだマシな表現で正直ガケが斜めになっているだけのような山道を延々30分ほど歩いてようやく撮影地へとたどり着いたのだった。だがいかんせんこれでは撤収に時間がかかりすぎる。天気もまだ悪いのでとりあえずセッティングだけして車を別の道から近くまで回すことにした。しかし、泣きっ面に蜂とはよく言ったものでこれもまた失敗。30分かけて車に戻って友人の運転でう回路を進んだのだが、一応車は通れるが一歩間違えば岩に乗り上げて亀になってしまうような道でこれまた撮影地に戻るだけで一苦労であった。なんとか撮影地まで戻ってくると天候は回復してきていた。労力が報われただけでもヨシとすべきか。

 今回この峠区間にやってきたのは単にここの風景が撮りたかっただけではなく、ゲンコツを撮るためだった。前日はゲンコツは運用に入っていたものの先頭でくることがなく会えなく撃沈していたため今日こそはと天に祈り列車を待った。

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その後しばらくして明らかに最近の機関車の音ではない重低音が峠にこだました。トンネルから出てきたのはゲンコツSŽ363牽引の新車輸送貨物だ!この車載貨物車輛、2両1ユニットになってるのがまた面白い。ついにゲンコツ先頭の列車を撮れた。

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天候がかなり回復してきたので峠の奥に見えるイタリア・トリエステの街をいれる構図に組みなおして待っていると、次に峠を下ってきたのはまたまたゲンコツ牽引のホッパ車とタンク車からなる混成貨物。調べたところによればこのホッパ車は鉄鉱石等の鉱石類を運ぶために使用されているようだ。この写真の中央奥が前日撮影していた場所であることを考えていただければこの路線の勾配の険しさがわかるだろうか。

 午後になる前に一度撤収しスーパーへ向かい、チーズと生ハム、パン、ジュースを買い込んで撮影地近くの教会でピクニックをして午後の撮影に備えた。午後は俯瞰ポイントからほど近い逆S字のポイントへ。

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 イバラと草をかき分けて線路脇の石灰岩切通に構えて列車をまつ。朝の曇天が嘘のように晴れ渡り、突き抜ける青空にうかぶ太陽からさんさんと降り注ぐ日光が肌に刺すほどだ。そんな天気の中、またあの朝から何度か聞いた重低音が唸り響いてきた。ペプーポープッという独特の警笛を1回、ゲンコツ牽引の混成貨物が下ってきた。貨車の内側が黒いことからして編成の先頭は石炭ホッパ車だろうか。線路にかぶりついて撮るとオデコの台形ヘッドライトがよくわかってなんともカッコイイ。

 快晴が続いたため、この後も日没ギリギリまで撮影を続行することになった。そして上々の撮影成果の中、次の撮影地へとコマをすすめたのだった。

Report No.131 断崖絶壁の生命線

 バルカン半島の付け根の西側、イタリアの隣にスロベニアという国がある。似た国名にスロバキアがあるがそれとはまた別の国である。総人口約200万人、面積20273㎞という小国だが、北はオーストリア、東はハンガリー、南はクロアチア、西はイタリアに囲まれ、アルプスと地中海のどちらの側面も併せ持つ”ヨーロッパの箱庭”のような美しい国である。だが果たしていくらの日本人がスロベニアを知っているだろうか。この小国が知られていない理由は小国であるが故だけではなく、単体の国としては比較的新しい国であることもかかわっているのだろう。スロベニアは27年前まで所謂「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」と日本で呼ばれていた地域である(当時はスロベニア民共和国としてユーゴスラビアの一部であった)。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が記憶に新しい方も多いかと思うが、これを前に1991年の十日間戦争によってユーゴスラビア連邦から独立している。その以前の近世で言えば、1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、1918年から1941年まではユーゴスラビア王国の構成地域であり、1941年から1945年まではナチス・ドイツ、イタリア、クロアチアハンガリーに占領または分割統治されていた。激動の近世を物語る地域であり、「スロベニア」という名が入れ替わり立ちかわる支配者たちによって埋もれてしまったのである。

 第二次世界大戦終結した際、イタリアとユーゴスラビアの間で港湾都市トリエステ周辺を巡って領土問題が発生した。冷戦黎明期の中、イタリアは西側でありユーゴスラビアは東側であったため冷戦の最前線となったのである。一旦は問題を棚上げし国連管理下でトリエステ自由地域として米英とユーゴスラビアによってトリエステは南北に分割されそれぞれ統治されることになった。そして1954年に北半分はイタリアへ帰属することになり南半分はユーゴスラビアに帰属することとなった。本題はここからである。

 トリエステ湾に面する港はいくつか存在するが、鉄道が接続していてもっとも当時発展していたのはイタリアに帰属した北半分のトリエステに存在するトリエステ港のみであったのだ。トリエステ港の次に大きかったのは南半分にあったコペル港だったがこちらには鉄道が接続していなかった。それはなぜならここが隣国クロアチアダルマチア式海岸へと続く山地とカルスト地形が出会う急峻な地形で、コペル港から直線距離で10km内陸に入るだけで標高400mのカルスト台地が立ちはだかっているからだ。だが、鉄道接続のあるトリエステの港湾を失った以上、コペルへの鉄道を整備しないというわけにはいかず、分割から13年たった1967年にコペル港へ至る鉄道が開通した。だが開通した鉄道線、Prešnica–Koper線は連続勾配25‰が15km続くものとなった上、カルスト台地の断崖絶壁をつたって単線を敷いた険しい路線となった。このような路線概況ながら、ユーゴスラビアから独立した後、コペル港はスロベニア唯一の商業港湾となったため、この鉄道は現在進行形でスロベニアの物流生命線となっている。

 今年の欧州遠征ではぜひともこの断崖絶壁の生命線を撮影すべくスイス・チューリッヒから寝台列車に乗って一路スロベニアへ赴いた。チューリッヒから乗った寝台列車とはオーストリア/スロベニアの国境の街イェセニツェでお別れし、オーストリア=ハンガリー帝国によって敷設されたボーヒニ線でイタリアとの国境の街ノヴァ=ゴリツァまで南下。そしてそこからはレンタカーで移動という行程となった。ボーヒニ線で途中バス代行というトラブルがあったのだがなんとかノヴァ=ゴリツァまでつくことはできた。駅で友人2人に荷物を預け、そしていざレンタカー屋へと別の友人と2人で歩いて向かったのだがこれが思ったよりも距離があった。バス代行で遅れていたのもあって店に到着したのは予定時刻を少し過ぎてから。だが店には誰もいない。どうなっているんだと携帯で電話するも応答なし。一体どうしたものかと思ってると何事もなかったかのようにベンツに乗って若い女性店員がやってきて「ごめんね、待った?」と言ってきた。いやはや異国の地でデートの待ち合わせのような状況になるとは。レンタカーの手続きを済ませてみると車は先ほど店員が乗ってきたベンツ。なるほどそういうことだったか、と納得した後、ひとまず友人に運転してもらい助手席で道案内をしつつ駅に残してきた残る友人ら2人と荷物を回収。一路コペルへと向かった。昼過ぎ、千と千尋の神隠しに出てくるような砂利道を走ったりしながらついたのは断崖絶壁の上の壮大な俯瞰ポイント。ここはPrešnica–Koper線のČrnotiče~Hrastovlje駅間であり、この峠路線でも一番の難所で、線路は大きく2回つづら折りになっている。

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 いままで行ったどの俯瞰撮影地よりも壮大な生の荒々しい自然を感じる撮影地だった。断崖絶壁の下にはヘビが木に巻き付くように線路が這っている。途中のスーパーで買い込んだ食材でサンドイッチを作りピクニック気分で撮影開始。するとしばらくして港からプッシュプルでコンテナ貨物列車が峠を登ってきた。フランス製のゲンコツ罐とドイツ製タウルスに挟まれて色とりどりのコンテナがゆっくりと運ばれていく。単線であるからそこまで輸送頻度が多いわけではないが20分に1本程度の間隔で上下の貨物がやってくる。「ここでは鉄道が”生きている”!」、そう思わざるを得ない光景だった。

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しばらくしてタウルスに牽引され長大編成のホッパー貨物がやってきた。港方面へ下る貨物は単機牽引で運転されているようだった。その後もしばし同ポイントで種々の貨物列車の撮影を続行した後は上の写真に見える左の崖側へ回り込んで撮影することにした。これまたジブリのような林道をはしって崖っぷちへ出た。

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 ちょうどよく斜光線になったころタウルスのプッシュプルで峠を登ってきたのはホッパー貨物。先ほど港へ下ったものの返しだろうか。6000kW超のタウルスがプッシュプルで貨物を引いていることからもこの区間の険しさがうかがい知れる。こうして欧州遠征二日目も初日のラインゴルトに続き上々の成果で締めくくることができた。この後は翌日の撮影に備え地元スーパーへ食料と水の買い出しに行くため一旦線路際を離れた。

Report No.130 名舞台

 広島地区の山陽本線長期普通に伴って運転された迂回貨物は、山陽本線の倉敷から伯備線に入り、米子から益田まで山陰本線を走行し、益田からは山口線を経由し新山口から再び山陽本線へ戻るというルートで運転された。このルートの一部はかつて所謂岡見貨物で使用されていたものだ。岡見貨物の名撮影地の一つとして有名だったのが岡見~鎌手の海岸沿いの青浦鉄橋だ。青浦鉄橋は日本海の荒波で削られてできた荒々しい小さな入り江を渡るためのもので、レンガ積みの橋脚とガーターが美しい橋梁だ。岡見貨物が2014年に廃止されて以降、貨物列車の走行がなくなってしまったばかりかここをDD51が走ること自体が検査関連の入出場を除いてなくなってしまった。JR貨物DD51原色機がすべて引退し、A更新色のみとなった今、青浦で記録できればDD51の晩年を印象付けるカットが撮れると考えた。

 運転初日となった8月29日、小田~田儀で撮影()したのち、青浦鉄橋へとコマを進めた。下り列車は、青浦を15時45分ごろに通過するダイヤで、この日は一日を通してまぶしいほどの晴れだった。青浦の集落で福岡からの友人と合流し、日本海からの潮風と照り付ける太陽、フライパンのように熱い岩肌からの照り返しに耐えながら青浦鉄橋を望める岩場へ向かった。

運転初日とあってギャラリーは数人で、思い思いの構図を組むことができた。念のためと思って持ってきたペットボトルのお茶を飲みほして少ししたころ、益田方面からキハ120の普通列車がやってきた。この普通列車と下り迂回貨物はすぐ先の岡見駅で交換設定されていたので、これがきたということは本番まであと数分ということ。

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 そして、波音を破ってDD51のエンジン音とジョイント音が聞こえてきた。照り付ける夏の日差しのもと、赤いA更新機にひかれて迂回貨物が青浦鉄橋を渡る。DD51晩年にまたとないカットをおさめることができた。

Report No.129 リベンジ

 一度外を見てしまえばまた行きたくなるというもの。今年も夏季休暇を利用して欧州遠征を組むことにした。今回はスロベニア、ドイツをメインに遠征することにし、スイスはチューリッヒを中心に動く計画にし、以前から興味があると言っていた友人たち3人を誘って海の外へ行くことを画策した。昨年同様中国国際航空関空を発ち、北京を経由しチューリッヒへ行き、そこからスロベニアへ夜行列車で赴くというような計画だった。

 ところが9月4日、中心気圧950hPaで近畿地方へ上陸した台風21号が猛威をふるい、関西空港は高潮による浸水のみならず連絡橋にタンカーが衝突し孤立化するなど甚大な被害が出た。これによって予約していた飛行機はキャンセルとなってしまったわけだが、振替便は本来の搭乗日から3日後以降のものしか確保できないといわれ、旅程崩壊の危機に見舞われた。仮に往路の振替便が確保できたとて、関空の復旧が見通せないため、復路の運行は未定。一旦は航空券をキャンセルせざるを得なくなった。だが捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもの。予定より1日早くの出発にはなるがタイ国際航空で成田発バンコク乗り継ぎチューリッヒ行きなら往復ともに少し撮影予定をするだけでほぼ旅程通りの遠征ができることがわかり即予約。遠征出発5日前にしてなんとか遠征のスタートラインに立つことができた。

 そして待ちに待った遠征当日、成田で友人たち3人と合流しバンコクを経由し19時間の飛行時間を経て晴天のチューリッヒへ降り立った。チューリッヒは朝到着だったため、夜の夜行列車までの時間を利用して本来遠征最終日に撮影するはずだった列車を撮りにバーゼル方面へ向かった。撮影対象はずばり「AKEラインゴルト」。昨年の遠征でも撮影したのだが、あいにくの曇りでの撮影(Report No.112 帰郷 - ぽっぽ屋備忘録)。ちょうど遠征日程初日にドイツ発スイス経由でイタリア方面へ下る予定となっていたので今回こそリベンジをとバーゼル近郊のItingen~Sissachのストレートに陣を構えた。異常気象か、この日の気温なんと30℃。ヨーロッパにきて日焼けすることになってしまった(笑)。

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 国際列車や貨物列車を撮影して待つこと2時間ほど、お待ちかねのAKEラインゴルトがBLSカーゴのRe485型機関車に牽引されてやってきた。雲一つない快晴の下、クリームとえんじ色のツートン塗装のTEE客車が駆けていく。遠征初日にして幸先良い滑りだし。友人たちも初海外での初カットから天気に恵まれ大満足の様子であった。 

Report No.128 夢物語

 平成最後の年となった今年7月、西日本は停滞した梅雨前線によって記録的豪雨に見舞われた。河川の氾濫や土砂崩れなどが西日本各地で相次ぎ、多数の死傷者をもだすことになった。特に岡山・広島地域の被害は深刻で、日本の大動脈たる山陽本線で土砂崩れや盛土流出が相次ぎ、長期運休を余儀なくされた。山陽本線が長期運休となることで最も問題となったのが本州対九州の東西物流の寸断である。JR貨物が1日に日本全国で輸送している貨物は約9万トンだが、うち約3万トンが山陽本線を経由して輸送されている。JR貨物では船やトラックによる代替輸送を行ったが確保できた輸送力はその1割程度だった。山陽本線が普通ならば山陰本線を迂回運転できないのか、という声も当初から少なからずあったが山陰本線でのJR貨物の営業免許は既になく、対応できる機関車、運転士の不足や線路状況などからも輸送力を確保するには到底能力不足で迂回運転は現実的ではないだろうというのが多くの人の意見だった。だが、昨今のトラックドライバー不足などの要因もあり少しでも輸送力を確保しなければならないという事情もあってか、JR貨物およびJR西日本伯備線山陰本線山口線を経由する迂回貨物輸送に着手することになった。確保できる輸送力は3万トンのうち1%にも満たないものだが、やらないよりは荷主への信頼へつながるという背景もあったのだろう。眉唾の夢物語という声すらあった山陰本線での迂回貨物輸送が実現することになった。

 8月からは後藤総合車両所所属のDD51を使用し乗務員の訓練が始まり、約1ヶ月近くの訓練の後、始発駅基準で8月28日からついに愛知機関区のDD51を使用しての山陰迂回貨物輸送が始まった。

 8月28日に名古屋を出た迂回貨物第1便は29日に伯備線に入り朝から山陰本線を下ることになっていた。29日は当初曇り予報だったのだが日が近づくにつれ予報が改善。28日夕方の予報をみて晴れを確信し広島の友人と大阪の友人に連絡を取り新大阪駅から最終の新幹線に飛び乗って迂回貨物撮影へ向かった。早朝伯備線内でEF64+DD51+貨物という送り込み編成を撮ったのち、山陰本線は小田~田儀の俯瞰へ向かった。

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 さすように鋭い日差しの中待つこと2時間。真っ青な日本海と遠景の島根半島をバックに軽やかに赤いDD51がコンテナ車を引き連れてやってきた。シャッターを押す手がこんなにも重く感じられたのはいつぶりだろうか。暑さも忘れてシャッターを切った。