ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.130 名舞台

 広島地区の山陽本線長期普通に伴って運転された迂回貨物は、山陽本線の倉敷から伯備線に入り、米子から益田まで山陰本線を走行し、益田からは山口線を経由し新山口から再び山陽本線へ戻るというルートで運転された。このルートの一部はかつて所謂岡見貨物で使用されていたものだ。岡見貨物の名撮影地の一つとして有名だったのが岡見~鎌手の海岸沿いの青浦鉄橋だ。青浦鉄橋は日本海の荒波で削られてできた荒々しい小さな入り江を渡るためのもので、レンガ積みの橋脚とガーターが美しい橋梁だ。岡見貨物が2014年に廃止されて以降、貨物列車の走行がなくなってしまったばかりかここをDD51が走ること自体が検査関連の入出場を除いてなくなってしまった。JR貨物DD51原色機がすべて引退し、A更新色のみとなった今、青浦で記録できればDD51の晩年を印象付けるカットが撮れると考えた。

 運転初日となった8月29日、小田~田儀で撮影()したのち、青浦鉄橋へとコマを進めた。下り列車は、青浦を15時45分ごろに通過するダイヤで、この日は一日を通してまぶしいほどの晴れだった。青浦の集落で福岡からの友人と合流し、日本海からの潮風と照り付ける太陽、フライパンのように熱い岩肌からの照り返しに耐えながら青浦鉄橋を望める岩場へ向かった。

運転初日とあってギャラリーは数人で、思い思いの構図を組むことができた。念のためと思って持ってきたペットボトルのお茶を飲みほして少ししたころ、益田方面からキハ120の普通列車がやってきた。この普通列車と下り迂回貨物はすぐ先の岡見駅で交換設定されていたので、これがきたということは本番まであと数分ということ。

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 そして、波音を破ってDD51のエンジン音とジョイント音が聞こえてきた。照り付ける夏の日差しのもと、赤いA更新機にひかれて迂回貨物が青浦鉄橋を渡る。DD51晩年にまたとないカットをおさめることができた。

Report No.129 リベンジ

 一度外を見てしまえばまた行きたくなるというもの。今年も夏季休暇を利用して欧州遠征を組むことにした。今回はスロベニア、ドイツをメインに遠征することにし、スイスはチューリッヒを中心に動く計画にし、以前から興味があると言っていた友人たち3人を誘って海の外へ行くことを画策した。昨年同様中国国際航空関空を発ち、北京を経由しチューリッヒへ行き、そこからスロベニアへ夜行列車で赴くというような計画だった。

 ところが9月4日、中心気圧950hPaで近畿地方へ上陸した台風21号が猛威をふるい、関西空港は高潮による浸水のみならず連絡橋にタンカーが衝突し孤立化するなど甚大な被害が出た。これによって予約していた飛行機はキャンセルとなってしまったわけだが、振替便は本来の搭乗日から3日後以降のものしか確保できないといわれ、旅程崩壊の危機に見舞われた。仮に往路の振替便が確保できたとて、関空の復旧が見通せないため、復路の運行は未定。一旦は航空券をキャンセルせざるを得なくなった。だが捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもの。予定より1日早くの出発にはなるがタイ国際航空で成田発バンコク乗り継ぎチューリッヒ行きなら往復ともに少し撮影予定をするだけでほぼ旅程通りの遠征ができることがわかり即予約。遠征出発5日前にしてなんとか遠征のスタートラインに立つことができた。

 そして待ちに待った遠征当日、成田で友人たち3人と合流しバンコクを経由し19時間の飛行時間を経て晴天のチューリッヒへ降り立った。チューリッヒは朝到着だったため、夜の夜行列車までの時間を利用して本来遠征最終日に撮影するはずだった列車を撮りにバーゼル方面へ向かった。撮影対象はずばり「AKEラインゴルト」。昨年の遠征でも撮影したのだが、あいにくの曇りでの撮影(Report No.112 帰郷 - ぽっぽ屋備忘録)。ちょうど遠征日程初日にドイツ発スイス経由でイタリア方面へ下る予定となっていたので今回こそリベンジをとバーゼル近郊のItingen~Sissachのストレートに陣を構えた。異常気象か、この日の気温なんと30℃。ヨーロッパにきて日焼けすることになってしまった(笑)。

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 国際列車や貨物列車を撮影して待つこと2時間ほど、お待ちかねのAKEラインゴルトがBLSカーゴのRe485型機関車に牽引されてやってきた。雲一つない快晴の下、クリームとえんじ色のツートン塗装のTEE客車が駆けていく。遠征初日にして幸先良い滑りだし。友人たちも初海外での初カットから天気に恵まれ大満足の様子であった。 

Report No.128 夢物語

 平成最後の年となった今年7月、西日本は停滞した梅雨前線によって記録的豪雨に見舞われた。河川の氾濫や土砂崩れなどが西日本各地で相次ぎ、多数の死傷者をもだすことになった。特に岡山・広島地域の被害は深刻で、日本の大動脈たる山陽本線で土砂崩れや盛土流出が相次ぎ、長期運休を余儀なくされた。山陽本線が長期運休となることで最も問題となったのが本州対九州の東西物流の寸断である。JR貨物が1日に日本全国で輸送している貨物は約9万トンだが、うち約3万トンが山陽本線を経由して輸送されている。JR貨物では船やトラックによる代替輸送を行ったが確保できた輸送力はその1割程度だった。山陽本線が普通ならば山陰本線を迂回運転できないのか、という声も当初から少なからずあったが山陰本線でのJR貨物の営業免許は既になく、対応できる機関車、運転士の不足や線路状況などからも輸送力を確保するには到底能力不足で迂回運転は現実的ではないだろうというのが多くの人の意見だった。だが、昨今のトラックドライバー不足などの要因もあり少しでも輸送力を確保しなければならないという事情もあってか、JR貨物およびJR西日本伯備線山陰本線山口線を経由する迂回貨物輸送に着手することになった。確保できる輸送力は3万トンのうち1%にも満たないものだが、やらないよりは荷主への信頼へつながるという背景もあったのだろう。眉唾の夢物語という声すらあった山陰本線での迂回貨物輸送が実現することになった。

 8月からは後藤総合車両所所属のDD51を使用し乗務員の訓練が始まり、約1ヶ月近くの訓練の後、始発駅基準で8月28日からついに愛知機関区のDD51を使用しての山陰迂回貨物輸送が始まった。

 8月28日に名古屋を出た迂回貨物第1便は29日に伯備線に入り朝から山陰本線を下ることになっていた。29日は当初曇り予報だったのだが日が近づくにつれ予報が改善。28日夕方の予報をみて晴れを確信し広島の友人と大阪の友人に連絡を取り新大阪駅から最終の新幹線に飛び乗って迂回貨物撮影へ向かった。早朝伯備線内でEF64+DD51+貨物という送り込み編成を撮ったのち、山陰本線は小田~田儀の俯瞰へ向かった。

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 さすように鋭い日差しの中待つこと2時間。真っ青な日本海と遠景の島根半島をバックに軽やかに赤いDD51がコンテナ車を引き連れてやってきた。シャッターを押す手がこんなにも重く感じられたのはいつぶりだろうか。暑さも忘れてシャッターを切った。

Report No.127 檸檬

 西武鉄道といえば、黄色い車体の電車を思い浮かべる方も多いかと思う。だが最近ではステンレス車両やアルミ車両の導入が進んだことで黄色い車体の車両は少しずつ数を減らしてきている。特に湘南顔の黄色い車両となると、西武線ではかなり数を減らしている。湘南顔の車両の多くは既に西武線から引退しているが、地方私鉄へ譲渡され第2の人生を歩んでいるものも少なくない。上信電鉄秩父鉄道、流鉄、伊豆箱根鉄道といった首都圏近郊の地方私鉄だけでなく、三岐鉄道近江鉄道といった近畿圏の路線でも元・西武車両は活躍している。この中でも三岐鉄道は801系や101系といった湘南顔の車両が多く在籍している。「ここで西武色の復刻が見られればかっこいいのになぁ」と常々思っていたところ、昨年末、西武色を復刻します!という発表が舞い込んできた。

聞くところによれば嘘か誠か、三岐鉄道色として使用されてきた黄色とオレンジの塗装の黄色部分が実は西武イエローと同色だったとか。西武所沢工場で改造されて輸送されてきたのだから確かにその時使った塗料は西武イエローだったのかもしれないがまさかこれまでも同じ塗料をつかっていたということなのだろうか。真相いざ知らずだがなんにせよ西武色の復刻はうれしいニュースだった。ただ問題は三岐鉄道では行き先表示器部分のLED化が少なからず行われており、復刻編成に選ばれるもの次第ではLED行き先表示となってしまって少し味気ないものになってしまうということだった。

 西武色復刻のニュースが流れてから数か月、ついに復刻色編成が姿を現した。選ばれたのは801系805編成。なんと方向幕搭載編成ではないか。そしてさらに言えば805Fは西武線での701系引退の際のさよなら運転に登板した781編成のなれの果てである。なんと粋な企画なのだと感心した。2018年4月26日から805編成は定期運用に復帰した。これはキレイなうちに撮影に行かねばならないと思い続けていたのだが、なかなか天候と運用と自身の予定がかみ合ってくれず二の足を踏んでいた。そして梅雨入り直前の6月2日、やっと友人たちとも予定があい、運用もよさそうだったので三岐鉄道へむかった。

 だが、いざ撮影地についてみると、まてどくらせど運用表に記載されたものでやってこない。調べてみるとどうやら前日の車両故障の影響で運用にズレが生じていたらしい。万事休す。だがいつ来るかわからない以上下手に動くわけにもいかない。保々の車両基地にいないことから運用にはついていることを確認し、ひとまず撮影地に戻り撮影続行。そしてようやく一発目が撮れたのだが、この運用だと2往復する程度で入庫してしまう。物事あまりうまくはいかないものである。

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 1発目を撮ったあと、2発目を保々~北勢中央公園口間のインカーブ登り築堤で撮影することに。踏切が鳴って少ししてゆっくりと主役が築堤を登ってきた。初夏の真っ青な空と瑞々しい若葉の間を檸檬色の電車が軽いジョイント音を響かせて通過する。なんともいい風景。暑さも忘れてシャッターを切る。夏の撮り鉄はこうでなくては。

Report No.126 悲願の末路

 2018年3月31日、JR西日本三江線はその88年の歴史に幕を閉じた。島根県江津から広島県の三次までを結ぶ全長108.1kmのローカル線であり、本州では初の100km超えの路線の全線廃止となった。江の川沿いに山陰方面と山陽方面を結ぶ陰陽連絡船として計画され、部分開通や工事中断などを経て1975年に全通した路線だった。だが、江の川沿いの曲がりくねった谷間を縫って走る路線であったため決して線形がいいとは言えず、更には川沿いを走ったことにより路線延長が長くなったこともあり、陰陽連絡線でありながら定期優等列車が設定されることはなかった。

 またモータリゼーションの加速、道路状況の向上によって利便性に欠ける三江線の地位が向上することはなく、全通前の1968年の時点で既に廃止検討されていたほどであった。全通後も状況は変わることなく、国鉄分割民営化前にも廃止が検討されたが、当時は全線を通しての代替道路がないことから廃止を免れた。

 分割民営化後は幾度かの自然災害による部分運休や復旧を繰り返していたが、沿線人口が減少していることなどもあり、収益改善が見込めないこと、災害復旧費用が高額であることなどからついに廃止せざるを得なくなったのである。残念ではあるが、通勤通学、通院などの利用者が多くいるわけでもなく、ほとんどの場合、カラの列車が運行されていたことを考えると仕方のない話のように思える。

 昨年夏の山口線での35系試運転の帰り、せっかくなので少し足を延ばして終わり迫る三江線を記録することにした。山口で撮影した後やってきたのは鹿賀~因原の俯瞰だった。ここは三江線の背景にこの地方特産の石州瓦で覆われた赤屋根の日本家屋が望めるポイントだ。

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夏の日差し厳しい中、惜別乗車で増えた乗客に対応するため2両に増結された普通列車が背後からやってきた。ちょうどその時、列車反対方向からは邑南町営のコミュニティバスがやってきた。これから去るものとこれから地域を支えていく存在が偶然にも1枚のフレームの中に納まった瞬間だった。

Report No.125 予兆

 毎年3月のJRグループ一斉ダイヤ改正は大きな変化が起きる。廃止される列車もあれば新設される列車もある。ここ10年で言えば、定期寝台列車などの廃止が相次いだわけだが、それらの中には「事実上の廃止」という道をたどったものも多くある。どういうことかといえば、定期列車から臨時列車へ格下げし、あくまで臨時列車として設定されていない、という形をとっている列車群である。通常の定期列車の列車番号は0~5000番代を使用していることが多いが、季節臨時や臨時列車は6000~9000番代の列車番号が使用される。つまり逆に言えばダイヤグラム上でそれまで5000番代以下に属していた列車が6000番代以上へ変更されるということは「事実上の廃止」の第一歩ともとれるわけなのだ。

  今年3月のダイヤ改正では愛知機関区DD51の運用の多くがDF200の運用へと鞍替えとなったが、同時に、これまで主に6000番代として設定されていた富田~四日市間のセメント貨物がすべて8000番代へと格下げされた。6000番代とされていたのは生産調整やセメント施設の定期点検などである程度の運休などを見込んでのことであったと思われるのだが、これをわざわざ8000番代に格下げするというのは不吉な予兆ともとれる。追い打ちをかけるように、セメント貨物で使用されるタキ1900形が老朽化のためか全般検査で検査不可とされて三岐鉄道へ送り返されることも起きている。セメントの生産終了という話は聞こえてこないが、置き換え貨車の発表もない現状を見ると今の鉄道を利用したセメント輸送が残るのかどうかわからないのかもしれない。

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Report No.124 弾丸機関車

 日本で新幹線が産声を上げた翌年、当時の西ドイツで最高速度時速200キロでの運転を目指して試作新型電気機関車E03型が開発された。E03型は4両が製造され、1965年から5年間営業運転を含む実地試験を行った。そしてその実績を踏まえて投入されたのが量産車である103型だ。流麗な流線形のフォルムはまさに弾丸列車ならぬ弾丸機関車のようだ。103型は当時のTEE(Trans Europ Express)やIC(Inter City)を中心に運用され、ICE登場まで西ドイツ国鉄の雄として活躍した。だが、その後は後継となる機関車の登場やドイツ版弾丸列車ICEの登場もあり1996年ごろから引退が始まっていった。そして2003年にはついに定期営業運転を終了し、その後は博物館の展示物になるかと思われた。

 だが、そうはならないのが欧州である。ドイツをはじめ欧州では、機械遺産に対する考えが成熟しており、蒸気機関車に限らず車両の動態保存が活発であり、電気機関車も例外ではない。更には動態保存といっても日本のようにローカル線などで細々と臨時列車を牽引する程度の動態保存ではなく、きちんと幹線を走行できるように整備し、定期列車で動態保存運転を行っているのだ。103型はその華々しい歴史と性能から現在も動態保存されており、つい数年前まで定期列車のICで動態保存運転されていた。

 ドイツに行くからには103型が撮りたい、と思っていたが昨年訪欧した際には定期ICでの運転は終了しており、重検査に入っていたり博物館でしばしの静態展示となっており望み薄に思えた。しかし、ドイツ到着後2日目、突如動態保存機103-245がウルム発ミュンヘン行きの早朝のIC2097で運転されるという情報が飛び込んできた。これはなんとしても撮らねばならぬとネットで地図とにらめっこし、撮影地を探した。ギュンツブルクを出て少し行ったところのストレートならば、日が出れば順光で撮れそうとふんで、フランクフルトから夜行ICEに飛び乗って早朝ギュンツブルクに着いた。そこから普通電車に乗り継ぎ撮影地最寄り駅へ。降りてみてびっくり、ただホームと申し訳程度のバス停のような待合スペースがあるだけの駅だった。到着したのは朝5時半ごろ。夏時間だったので日の出は通過直前。今から撮影地に歩いてもどうしようもないのでフランクフルトで買ったサンドイッチをほおばりつつ明るくなるのを駅でまった。

 徐々にトワイライトゾーンになってきた頃駅を出て撮影地へ20分ほど歩いた。どうもこの日は雲が多く露出は多少あるだろうが晴れは望めなさそうという条件。だがしかし103型が撮れることに変わりはない。セッティングし満を持して103型を待つ。f:id:limited_exp:20180111025334j:plain

 ICEや貨物が何本か通過した後、ついにお目当て103型がIC2097の先頭でやってきた。3つ目光る流線形のその機関車は動態保存機と思えぬ俊足でミュンヘンへ急ぎ走り去っていった。ああ、遠路遥々ドイツまで来てよかった、そう思えた瞬間だった。