ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.127 檸檬

 西武鉄道といえば、黄色い車体の電車を思い浮かべる方も多いかと思う。だが最近ではステンレス車両やアルミ車両の導入が進んだことで黄色い車体の車両は少しずつ数を減らしてきている。特に湘南顔の黄色い車両となると、西武線ではかなり数を減らしている。湘南顔の車両の多くは既に西武線から引退しているが、地方私鉄へ譲渡され第2の人生を歩んでいるものも少なくない。上信電鉄秩父鉄道、流鉄、伊豆箱根鉄道といった首都圏近郊の地方私鉄だけでなく、三岐鉄道近江鉄道といった近畿圏の路線でも元・西武車両は活躍している。この中でも三岐鉄道は801系や101系といった湘南顔の車両が多く在籍している。「ここで西武色の復刻が見られればかっこいいのになぁ」と常々思っていたところ、昨年末、西武色を復刻します!という発表が舞い込んできた。

聞くところによれば嘘か誠か、三岐鉄道色として使用されてきた黄色とオレンジの塗装の黄色部分が実は西武イエローと同色だったとか。西武所沢工場で改造されて輸送されてきたのだから確かにその時使った塗料は西武イエローだったのかもしれないがまさかこれまでも同じ塗料をつかっていたということなのだろうか。真相いざ知らずだがなんにせよ西武色の復刻はうれしいニュースだった。ただ問題は三岐鉄道では行き先表示器部分のLED化が少なからず行われており、復刻編成に選ばれるもの次第ではLED行き先表示となってしまって少し味気ないものになってしまうということだった。

 西武色復刻のニュースが流れてから数か月、ついに復刻色編成が姿を現した。選ばれたのは801系805編成。なんと方向幕搭載編成ではないか。そしてさらに言えば805Fは西武線での701系引退の際のさよなら運転に登板した781編成のなれの果てである。なんと粋な企画なのだと感心した。2018年4月26日から805編成は定期運用に復帰した。これはキレイなうちに撮影に行かねばならないと思い続けていたのだが、なかなか天候と運用と自身の予定がかみ合ってくれず二の足を踏んでいた。そして梅雨入り直前の6月2日、やっと友人たちとも予定があい、運用もよさそうだったので三岐鉄道へむかった。

 だが、いざ撮影地についてみると、まてどくらせど運用表に記載されたものでやってこない。調べてみるとどうやら前日の車両故障の影響で運用にズレが生じていたらしい。万事休す。だがいつ来るかわからない以上下手に動くわけにもいかない。保々の車両基地にいないことから運用にはついていることを確認し、ひとまず撮影地に戻り撮影続行。そしてようやく一発目が撮れたのだが、この運用だと2往復する程度で入庫してしまう。物事あまりうまくはいかないものである。

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 1発目を撮ったあと、2発目を保々~北勢中央公園口間のインカーブ登り築堤で撮影することに。踏切が鳴って少ししてゆっくりと主役が築堤を登ってきた。初夏の真っ青な空と瑞々しい若葉の間を檸檬色の電車が軽いジョイント音を響かせて通過する。なんともいい風景。暑さも忘れてシャッターを切る。夏の撮り鉄はこうでなくては。

Report No.126 悲願の末路

 2018年3月31日、JR西日本三江線はその88年の歴史に幕を閉じた。島根県江津から広島県の三次までを結ぶ全長108.1kmのローカル線であり、本州では初の100km超えの路線の全線廃止となった。江の川沿いに山陰方面と山陽方面を結ぶ陰陽連絡船として計画され、部分開通や工事中断などを経て1975年に全通した路線だった。だが、江の川沿いの曲がりくねった谷間を縫って走る路線であったため決して線形がいいとは言えず、更には川沿いを走ったことにより路線延長が長くなったこともあり、陰陽連絡線でありながら定期優等列車が設定されることはなかった。

 またモータリゼーションの加速、道路状況の向上によって利便性に欠ける三江線の地位が向上することはなく、全通前の1968年の時点で既に廃止検討されていたほどであった。全通後も状況は変わることなく、国鉄分割民営化前にも廃止が検討されたが、当時は全線を通しての代替道路がないことから廃止を免れた。

 分割民営化後は幾度かの自然災害による部分運休や復旧を繰り返していたが、沿線人口が減少していることなどもあり、収益改善が見込めないこと、災害復旧費用が高額であることなどからついに廃止せざるを得なくなったのである。残念ではあるが、通勤通学、通院などの利用者が多くいるわけでもなく、ほとんどの場合、カラの列車が運行されていたことを考えると仕方のない話のように思える。

 昨年夏の山口線での35系試運転の帰り、せっかくなので少し足を延ばして終わり迫る三江線を記録することにした。山口で撮影した後やってきたのは鹿賀~因原の俯瞰だった。ここは三江線の背景にこの地方特産の石州瓦で覆われた赤屋根の日本家屋が望めるポイントだ。

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夏の日差し厳しい中、惜別乗車で増えた乗客に対応するため2両に増結された普通列車が背後からやってきた。ちょうどその時、列車反対方向からは邑南町営のコミュニティバスがやってきた。これから去るものとこれから地域を支えていく存在が偶然にも1枚のフレームの中に納まった瞬間だった。

Report No.125 予兆

 毎年3月のJRグループ一斉ダイヤ改正は大きな変化が起きる。廃止される列車もあれば新設される列車もある。ここ10年で言えば、定期寝台列車などの廃止が相次いだわけだが、それらの中には「事実上の廃止」という道をたどったものも多くある。どういうことかといえば、定期列車から臨時列車へ格下げし、あくまで臨時列車として設定されていない、という形をとっている列車群である。通常の定期列車の列車番号は0~5000番代を使用していることが多いが、季節臨時や臨時列車は6000~9000番代の列車番号が使用される。つまり逆に言えばダイヤグラム上でそれまで5000番代以下に属していた列車が6000番代以上へ変更されるということは「事実上の廃止」の第一歩ともとれるわけなのだ。

  今年3月のダイヤ改正では愛知機関区DD51の運用の多くがDF200の運用へと鞍替えとなったが、同時に、これまで主に6000番代として設定されていた富田~四日市間のセメント貨物がすべて8000番代へと格下げされた。6000番代とされていたのは生産調整やセメント施設の定期点検などである程度の運休などを見込んでのことであったと思われるのだが、これをわざわざ8000番代に格下げするというのは不吉な予兆ともとれる。追い打ちをかけるように、セメント貨物で使用されるタキ1900形が老朽化のためか全般検査で検査不可とされて三岐鉄道へ送り返されることも起きている。セメントの生産終了という話は聞こえてこないが、置き換え貨車の発表もない現状を見ると今の鉄道を利用したセメント輸送が残るのかどうかわからないのかもしれない。

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Report No.124 弾丸機関車

 日本で新幹線が産声を上げた翌年、当時の西ドイツで最高速度時速200キロでの運転を目指して試作新型電気機関車E03型が開発された。E03型は4両が製造され、1965年から5年間営業運転を含む実地試験を行った。そしてその実績を踏まえて投入されたのが量産車である103型だ。流麗な流線形のフォルムはまさに弾丸列車ならぬ弾丸機関車のようだ。103型は当時のTEE(Trans Europ Express)やIC(Inter City)を中心に運用され、ICE登場まで西ドイツ国鉄の雄として活躍した。だが、その後は後継となる機関車の登場やドイツ版弾丸列車ICEの登場もあり1996年ごろから引退が始まっていった。そして2003年にはついに定期営業運転を終了し、その後は博物館の展示物になるかと思われた。

 だが、そうはならないのが欧州である。ドイツをはじめ欧州では、機械遺産に対する考えが成熟しており、蒸気機関車に限らず車両の動態保存が活発であり、電気機関車も例外ではない。更には動態保存といっても日本のようにローカル線などで細々と臨時列車を牽引する程度の動態保存ではなく、きちんと幹線を走行できるように整備し、定期列車で動態保存運転を行っているのだ。103型はその華々しい歴史と性能から現在も動態保存されており、つい数年前まで定期列車のICで動態保存運転されていた。

 ドイツに行くからには103型が撮りたい、と思っていたが昨年訪欧した際には定期ICでの運転は終了しており、重検査に入っていたり博物館でしばしの静態展示となっており望み薄に思えた。しかし、ドイツ到着後2日目、突如動態保存機103-245がウルム発ミュンヘン行きの早朝のIC2097で運転されるという情報が飛び込んできた。これはなんとしても撮らねばならぬとネットで地図とにらめっこし、撮影地を探した。ギュンツブルクを出て少し行ったところのストレートならば、日が出れば順光で撮れそうとふんで、フランクフルトから夜行ICEに飛び乗って早朝ギュンツブルクに着いた。そこから普通電車に乗り継ぎ撮影地最寄り駅へ。降りてみてびっくり、ただホームと申し訳程度のバス停のような待合スペースがあるだけの駅だった。到着したのは朝5時半ごろ。夏時間だったので日の出は通過直前。今から撮影地に歩いてもどうしようもないのでフランクフルトで買ったサンドイッチをほおばりつつ明るくなるのを駅でまった。

 徐々にトワイライトゾーンになってきた頃駅を出て撮影地へ20分ほど歩いた。どうもこの日は雲が多く露出は多少あるだろうが晴れは望めなさそうという条件。だがしかし103型が撮れることに変わりはない。セッティングし満を持して103型を待つ。f:id:limited_exp:20180111025334j:plain

 ICEや貨物が何本か通過した後、ついにお目当て103型がIC2097の先頭でやってきた。3つ目光る流線形のその機関車は動態保存機と思えぬ俊足でミュンヘンへ急ぎ走り去っていった。ああ、遠路遥々ドイツまで来てよかった、そう思えた瞬間だった。

Report No.123 押し屋

 山口線では例年、年末年始に休暇の観光需要を見込んで蒸気機関車牽引列車の運転が設定される。年末のものはいつも通りSL「やまぐち号」として運転されるが、年始のものは初詣にちなんでSL「津和野稲成」号として名前を変えて運行される。ヘッドマークもこのときは正月らしい賀正と文字の入った赤地のやまぐち号ヘッドマークが掲出される。そして、この冬季運転では、例年C56-160が牽引に充当されるのが常となっている。だが勾配の多い山口線ではC56は些か非力とあって、補機としてDD51-1043が次位に連結される。黒い蒸気機関車の後ろに赤い機関車がつくのは認められないという派閥の方も多いだろうが、それぞれの時代の機関車が手を取り合って走行するのを見れるのも現代ならではで、個人的には意外と好みな運用である。なによりDD51ファンとしては本務機ではなく補機として活躍するDD51を見られるというのはなかなかにうれしいものがある。今年からは客車が35系に新しくなったがそれもつかの間、D51-200の復活もあり、C56-160は今後山口線での運転から退くことになるため、C56-160が35系を引く姿を拝めるのも今だけなのだ。そしてつまりそれは今後DD51-1043が押し屋として運用に入ることの現象も意味するわけだ。

 年始、家でゴロゴロしていると、友人らからせっかくなので山口に撮りに行かないかと誘われた。これまでも何度か誘われたことはあったのだが、なんだかんだでお流れになっており行けていなかった。去就もささやかれているしちょうどいい機会だということで誘いに乗って遥々山口まで出向いた。

 岡山でまず発起人の友人と合流後、広島と新山口駅であと2人の友人たちと合流。一旦朝まで休み、まず一発目は定番中の定番、大山路踏切で構えた。大山路踏切は本来曇りでなければ逆光となる撮影地なので予報通り曇っていてほしかったのだが予想に反してピンポイント晴れとなり撃沈。しかたなく長門峡へ追いかけるもここでも予想に反して晴れられてしまった。最後の望みを託して裏道を走り、通過時刻ギリギリで徳佐のカーブへたどり着いた。

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 構えて数分後、汽笛一声、徳佐駅を発車したSL津和野稲成号がやってきた。C56-160が赤い正月仕様HMも誇らしげにDD5-1043に手助けされながら35系を率いてゆっくりと津和野へ向かっていく。終点まであと少しだ。

Report No.122 寒暁

 東北地方というと、冬は常に雪と氷に閉ざされているようなイメージを持っている方も多いと思うが実際にはそうとも限らない。太平洋側の沿岸地域は、内陸の山間部や日本海側に比べ暖かいため、雪は降るがあまり積雪は長く残るようなことは少ないというのが実際のようだ。中でも大船渡は一部で岩手の湘南といわれるほど温暖で、気象庁のデータによれば近年では年間最大積雪量でも20cmを下回るほどだ。つまり大船渡に限って言えば、冬でも雪を絡めた写真というのはなかなか撮れないということになる。

 だが、基本的に雪の日にこそ、雪の日にしか、撮れない被写体というものが存在する。それが岩手開発鉄道の朝の重連運用である。岩手開発鉄道は大船渡市の盛駅から岩手石橋駅までを結ぶ日頃市線と盛駅から赤崎駅までを結ぶ赤崎線の2線を保有する鉄道である。かつては旅客営業も行っていたが、現在は赤崎駅の太平洋セメント大船渡工場へ岩手石橋駅から石灰石を輸送する貨物輸送のみを行っている所謂産業鉄道路線である。国鉄DD13タイプを改良したDD56形機関車と国鉄セキ3000形ホッパ貨車を改良したホキ100形を運用しており、通常は機関車1両にホキ100形を18両繋げて1日13往復程度を基本として運転されている。だが、雪が積もった翌日の午前中は空転防止のために単機牽引から重連牽引に変更されることがあるのだ。

 岩手開発鉄道自体は前々から遅かれ早かれ行きたいと思っていたのだが、いかんせん西日本に住んでいる身としては安く東北に行く方法をなかなか見つけられず長らく手をこまねいていた。だが、昨年夏にスカイマークが神戸~仙台便を復活させたことで一気に行きやすくなった。後は予定を合わせるだけであったのだがその予定がなかなか合わず気付けば2月も半ばとなったころだった。ちょうど予定が3日ほど空いており、仙台便も安く航空券がとれることを知って、2月27、28日の日程で半ば強行軍で友人たちと3人で岩手開発鉄道へ行くことを決めた。当日は夕方の便で仙台入りし仙台からはレンタカーで気仙沼へ向かい、気仙沼に宿泊、翌朝早くから行動を開始する計画とした。するとなんと27日は突如の寒波でなかなか雪の積もらない東北太平洋側でもあれよあれよという間に雪が積もっていった。気仙沼の宿に着いた頃には10cm程度の雪が積もっており、その後も深夜までしんしんと雪が降り続いた。「これはひょっとすれば朝の岩手開発鉄道の1本目は重連になるのではないだろうか。」と淡い期待をいだきつつ眠りについた。

 翌朝は前夜の雪模様とは打って変わって、雲は多少あえれどすがすがしい冬晴れ。早朝6時に宿を発ち、盛駅へ向かうと盛駅の出発線ではまさに朝1番目と2番目の列車が暖機運転をしていた。そして願ったりかなったり。朝1番目は重連運用。だが朝1番目は盛駅から岩手石橋駅へと北西を向いて走る列車。順光にはならない。ならばと長安寺駅手前の川沿いのインカーブで山をバックに太陽を隠せばいいのではと考えて撮影地へ。

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 ついてみてニヤリ、山の木々はすっかりに雪に覆われ、いかにも冬景色。太陽はちょうど山の向こう側に隠れておりもうここしかないと陣を張って1番列車を待つ。吹きすさぶ寒風の中待つこと20分、協調運転のホイッスルが山にこだましてきた。そしてトンネルから颯爽と青い機関車2両に率いられてホッパ車がぞろぞろと現れた。線路に積もった雪をスノープロウと排障器で蹴り上げながら銀世界を軽やかなホイッスルと重厚なエンジン音のシンフォニーを奏でながら走り抜けた。

 重連列車は岩手石橋駅石灰石を積み込むと、重連の先頭に立っていた機関車を最後尾に付け替えてプッシュプル形態(実際には最後尾の機関車は回送状態のようだ)で今度は赤崎駅へ向かう。これは日頃市~長安寺の踏切付近のストレートで狙った。

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 あいにくと偶然湧いてきた雲でこの列車通過時は太陽を阻まれてしまったが、プッシュプル形態でDD13タイプの機関車がホキを18両も間に挟んでやってくる様は圧巻だった。先ほどは空荷だったため軽やかなジョイント音を奏でていた貨車も石灰石を満載にして重く鈍い音を立てて迫力を演出していた。最後尾の機関車はこの後盛駅で切り離されたようで、切り離し作業に伴う遅延でこの後の午前中の列車は少々遅れを持ちながらの運転となっていた。

 重連列車とプッシュプル列車というなかなか見れるものではない、”冬もの”を運よく記録することができて感無量であった。だがこれはまだこの日の始まり。この興奮醒めあらぬ中、晴れを求めて岩手開発鉄道での撮影を続行したのだった。<続> 

Report No.121 アジアンTGV

  1964年日本で新幹線が誕生し、早くも54年。その後新幹線の後を追って世界各国で高速鉄道がつくられることとなった。有名どころで言えばドイツのICE、フランスのTGV、イタリアのペンドリーノなどがあり、これらは世界中様々な国へ輸出され運用されている。中でもTGVをベースとする車両は初代ユーロスターやスペインのAVE、アメリカのアセラ・エクスプレス、韓国のKTXに採用されており、高速鉄道市場の雄となっている。TGVは所謂動力集中方式の高速鉄道であり、編成両端に配置された機関車で客車を挟み込む構造となっている。このため、客室部は静穏性に優れており、機関車以外は電装品の装備数をおさえられるためコストダウンできるなどのメリットがある。更には、走行抵抗を減らすために客車は全て連接台車で繋がれており、乗り心地の向上にも一役買っている。しかし、動力集中方式であるため動力分散方式の新幹線などと比べると些か加減速性能が劣るというのがデメリットである。

 ではなぜ複数の国でTGVベースの車両が採用されているかといえばそれはやはり導入コストの安さが理由としてあげられる。前述したとおり、車両製造コストを抑えることができるのはもちろんの理由なのだが、TGVはもとより高速線のみの運用ではなく在来線に直通することを念頭にシステムが設計されている。このため、導入に際して信号システムなどを在来線も合わせて一新するということをしなくて済むため(もちろん少々の改良は必要となる)、インフラストラクチャーの部分でもコストカットを実現できるのだ。韓国のKTXにおいては日本の企業連合が新幹線式鉄道で入札を行ったのだが、保安システムや車両システムが高価であったことや韓国内の反日感情の高まりなどから入札を認められず、フランスTGVベースのものに軍配が上がることになった。このような経緯からKTXの車両にはTGV Réseauをベースにした機関車込20両編成の100000形、通称KTX-Iが導入されたのだ。ベースとなったTGV Reseauはフランス国内では10両を基本としており、単独で20両編成という長編成を拝めるのは韓国KTX-Iのみである。(併結運用であれば20両より長い運用がフランス内に存在する)

 数年前からKTXは一度訪問してみたいと思っていたのだが、いかんせんKTXの高速新線区間は日本の新幹線以上に鉄壁のガードを誇る環境となっており、なかなか撮影できることろが存在しない。もちろん駅でなら撮影可能なのだが、わざわざ異国まで行って駅撮りというのも味気なく思えてしまいなかなか渡航できずにいた。だがふとネットをさまよっていると、現地の鉄道ファンが撮ったと思しき後追いの沿線での写真が出てきた。見るからに高速新線でないその写真を不思議に思って調べてみると、KTXは高速新線だけでなく一部地域で在来線に直通していることがわかった。後追いの写真をもとに場所を特定すると、ドンピシャで在来線の湖南線直通区間であった。これを知ってからはいつ行こうか、どうやって行こうかとウズウズしていたのだが、ふと18切符シーズンならば18切符利用で関釜フェリーを半額で利用できることを思い出しこれで行くことを考え始めた。そして金曜夜出発で土日を撮影してLCCで帰国という行程ならば働いている友人も行けるのではと北九州で働いている友人を巻き込んでの弾丸ツアーを去る3月9日から11日にかけて決行した。

 撮影地は湖南線の鶏龍~黒石里だったのだが、この区間は多くが廃駅になっており朝フェリーを降りてから釜山駅よりKTXに乗り込み大田へ向かいそこからバスで撮影地の最寄りまで行きそこから徒歩という行程となった。途中道に迷い氷点下に近い川を素足で渡る羽目になりながらもなんとか撮影地に到着した。空は雲一つない晴天。どうやら今回も前回のヨーロッパ遠征同様お天道様は我々の味方のようだった。

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 待つことおよそ2時間ほど。お待ちかねのKTX782号ソウル行きがやってくる時間だ。そして山間のカーブを抜けてアジアンテイストなTGVがゆっくりとやってきた。TGVシリーズの車両の多くは最後尾機関車のパンタを上げて運転されるのだが、KTXも例にもれずのようだ。少し顔は丸くアレンジされているがライト位置や運転席窓の構造などはTGVそのもの。長い20両編成が連接台車の独特の走行音を奏でながらアジアンTGVはソウルへと向かっていった。

 この後は友人と祝杯をあげるためそさくさと大田市内へ戻りセマウルに乗ってソウルへ繰り出しソウル市内でサムギョプサルに舌鼓をうったのだった。