ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.121 アジアンTGV

  1964年日本で新幹線が誕生し、早くも54年。その後新幹線の後を追って世界各国で高速鉄道がつくられることとなった。有名どころで言えばドイツのICE、フランスのTGV、イタリアのペンドリーノなどがあり、これらは世界中様々な国へ輸出され運用されている。中でもTGVをベースとする車両は初代ユーロスターやスペインのAVE、アメリカのアセラ・エクスプレス、韓国のKTXに採用されており、高速鉄道市場の雄となっている。TGVは所謂動力集中方式の高速鉄道であり、編成両端に配置された機関車で客車を挟み込む構造となっている。このため、客室部は静穏性に優れており、機関車以外は電装品の装備数をおさえられるためコストダウンできるなどのメリットがある。更には、走行抵抗を減らすために客車は全て連接台車で繋がれており、乗り心地の向上にも一役買っている。しかし、動力集中方式であるため動力分散方式の新幹線などと比べると些か加減速性能が劣るというのがデメリットである。

 ではなぜ複数の国でTGVベースの車両が採用されているかといえばそれはやはり導入コストの安さが理由としてあげられる。前述したとおり、車両製造コストを抑えることができるのはもちろんの理由なのだが、TGVはもとより高速線のみの運用ではなく在来線に直通することを念頭にシステムが設計されている。このため、導入に際して信号システムなどを在来線も合わせて一新するということをしなくて済むため(もちろん少々の改良は必要となる)、インフラストラクチャーの部分でもコストカットを実現できるのだ。韓国のKTXにおいては日本の企業連合が新幹線式鉄道で入札を行ったのだが、保安システムや車両システムが高価であったことや韓国内の反日感情の高まりなどから入札を認められず、フランスTGVベースのものに軍配が上がることになった。このような経緯からKTXの車両にはTGV Réseauをベースにした機関車込20両編成の100000形、通称KTX-Iが導入されたのだ。ベースとなったTGV Reseauはフランス国内では10両を基本としており、単独で20両編成という長編成を拝めるのは韓国KTX-Iのみである。(併結運用であれば20両より長い運用がフランス内に存在する)

 数年前からKTXは一度訪問してみたいと思っていたのだが、いかんせんKTXの高速新線区間は日本の新幹線以上に鉄壁のガードを誇る環境となっており、なかなか撮影できることろが存在しない。もちろん駅でなら撮影可能なのだが、わざわざ異国まで行って駅撮りというのも味気なく思えてしまいなかなか渡航できずにいた。だがふとネットをさまよっていると、現地の鉄道ファンが撮ったと思しき後追いの沿線での写真が出てきた。見るからに高速新線でないその写真を不思議に思って調べてみると、KTXは高速新線だけでなく一部地域で在来線に直通していることがわかった。後追いの写真をもとに場所を特定すると、ドンピシャで在来線の湖南線直通区間であった。これを知ってからはいつ行こうか、どうやって行こうかとウズウズしていたのだが、ふと18切符シーズンならば18切符利用で関釜フェリーを半額で利用できることを思い出しこれで行くことを考え始めた。そして金曜夜出発で土日を撮影してLCCで帰国という行程ならば働いている友人も行けるのではと北九州で働いている友人を巻き込んでの弾丸ツアーを去る3月9日から11日にかけて決行した。

 撮影地は湖南線の鶏龍~黒石里だったのだが、この区間は多くが廃駅になっており朝フェリーを降りてから釜山駅よりKTXに乗り込み大田へ向かいそこからバスで撮影地の最寄りまで行きそこから徒歩という行程となった。途中道に迷い氷点下に近い川を素足で渡る羽目になりながらもなんとか撮影地に到着した。空は雲一つない晴天。どうやら今回も前回のヨーロッパ遠征同様お天道様は我々の味方のようだった。

f:id:limited_exp:20180312020216j:plain

 待つことおよそ2時間ほど。お待ちかねのKTX782号ソウル行きがやってくる時間だ。そして山間のカーブを抜けてアジアンテイストなTGVがゆっくりとやってきた。TGVシリーズの車両の多くは最後尾機関車のパンタを上げて運転されるのだが、KTXも例にもれずのようだ。少し顔は丸くアレンジされているがライト位置や運転席窓の構造などはTGVそのもの。長い20両編成が連接台車の独特の走行音を奏でながらアジアンTGVはソウルへと向かっていった。

 この後は友人と祝杯をあげるためそさくさと大田市内へ戻りセマウルに乗ってソウルへ繰り出しソウル市内でサムギョプサルに舌鼓をうったのだった。

Report No.120 落城近し

 昨年3月のJR貨物ダイヤ改正では、ついに愛知機関区のDD51の運用の一部がDF200の運用に変更され正式にDD51の淘汰が始まるものと思われた。しかしいざダイヤ改正を迎えてみると、DF200に置き換えられたはずの運用はダイヤ改正前と変わらずDD51が運用にあたり、以後代走としてDD51が使用され続けていた。しかし、代走が約1年になろうかという直前の2月1日、ついにDF200の正式運用が開始された。2月1日からは5263レ、5282レでまず運転が開始され、2月7日からはこれに加えて8075レ、6286レもDF200による運転が開始された。これにより、塩浜へ重連で入線するDD51の運用は8079レ、8072レのみとなった。ただし、単機運用としては季節臨時の6287レが残っている(2018年3月2日現在)。最近では愛知機関区に続々とDF200が転属してきており、現在ではその数は3両となっており、更に2018年3月2日現在川崎重工でDF200-122が愛知機関区転属のため改造中となっている。このためDD51の運用がすべてDF200に置き換わるのも時間の問題とも思われる。

 DD51からDF200への置き換え過渡期の今、過渡期らしい一枚を撮ろうと思い立って久々に四日市へ出向くことにした。冬季を中心に運転される季節臨時6287レは朝一番に塩浜にやってくる列車で、牽引機のDD51は6287レ到着後、構内で入れ替えを行った後、一旦留置され単機で6280レとして四日市へ向かう。この留置中、後続でやってくる5263レが6287レの牽引機が留置されている横の線に入線してくる。ここをうまく切り取れば過渡期らしい一コマが撮れるだろうと考えた。

 撮影に向かった2月4日は晴れに恵まれ、まずはいつもの近鉄塩浜駅こ線橋からの6287レ超望遠カットをいただいた後、そのままの構図で入れ替えが行われるのを見つつDF200牽引となった5263レがやってくるのを待った。

f:id:limited_exp:20180218011525j:plain

 出発信号機の前でDD51が発車を待つ中、DF200が轟音と共にその巨体を揺らしながらゆっくりと石油タンク車を率いて入線してきた。DF200からめらめらと立ち上る排煙の陽炎が横に止まるDD51の像をゆがめた。近い将来、愛知機関区からDD51が消えるのは必然、”過渡期の今”を夢中で記録した。

Report No.119 風雲児

 貨物列車は一度に大量の物資を輸送できるが、その反面、速度は遅くなりがちだ。戦後、日本全国で高速道路などの高規格道路が整備されはじめ、長距離物流の主要手段がトラック輸送へと移行し始めた。この頃の国鉄の貨物輸送の主流は所謂車扱貨物と呼ばれるもので、貨車1両、1両に荷物を積む方式だった。このため、貨物駅でほかの輸送手段から貨車へ荷物を積み替えるために手間がかかり、行き先ごとに操車場で編成を組み替える必要があるため時間がかかっており速達性に欠け、効率的とは言い難い状況であった。また、この当時主流であった貨車の多くが2軸貨車であり、最高速度が75km/h程度と低速であったことも速達性を低下させている要因であった。そこで国鉄では、速達化を図るためワキ10000型に代表されるような2軸ボギー台車を履いた100km/hで走行可能な貨車や、コンテナ貨車の導入を開始した。この流れの中で、高速走行可能でかつ高出力の新型試作機関車として鳴り物入りで開発されたのが後にEF66の原型となるEF90であった。EF66はそれまでのEF65に比べて約1.5倍の出力、3900kWをほこり、EF65重連で牽引していた列車を単機で牽引できるようになった。

 EF66の他より少し高い運転台と481系、151系などの”ボンネット”型特急電車を意識したライトケース、きりっと通った鼻筋、ステンレスの飾り帯を纏った先頭形状はそれまでの国鉄の機関車とは異なるスタイリッシュなもので、国鉄貨物輸送の新時代を告げる風雲児として申し分のないものだった。

 だがそれも今はかつての話。EF90の誕生から数えて今年で52年、JR化後に追加増備された100番台を除く0番台の多くは既に引退しており、0番台はJR貨物吹田機関区に所属する数両が細々と活躍するのみとなっている。その細々と活躍する数両の中の1両がEF66-27だ。JR化後に更新工事やクーラー取り付けを受けるなどしたため完全な原型ではないものの、特徴的な飾り帯や特急シンボルマークと一体になったナンバープレートはそのままとなっており、塗装も屋根こそ滑り止めのグレー塗装になっているものの、他は青にクリーム帯の塗装で、準・国鉄ともいえる仕様になっている。

 2017年まで、東海道線貨物の5073レは吹田機関区所属のEF66の運用であり、関西に夕方少し遅く到着するダイヤであったため夏場の日が長い時期にもってこいの運用であった。ネットなどでよく作例を見かけたのは安土~能登川などの編成をすっきりと撮れるところだったのだが、ある時、京都駅の東の東山トンネルから続くコンクリートの洞門を出てきたところのほかの被写体の作例を見かけて衝撃を受けた。これをEF66で撮ったらどんなにかっこいいだろう、そう思っていると、ちょうどEF66-27が5073レに入っていた。もう十分日が長くなっている時期でもあったので、これは行ってみるしかないと思い立って撮影に向かった。

f:id:limited_exp:20180217235704j:plain

 17時15分を回ったころ、長く続く洞門の奥に2灯のライトが見えた。ここはサンダーバードや新快速といった車両も通るがこの2灯のライトは違う。洞門の柱の間から差し込む光をうけるたび、キラリ、キラリとステンレスの飾り帯が反射する。そして力強いブロワー音と共に洞門の額縁からEF66-27が飛び出した。 

Report No.118 ゴッタルド峠

 アルプスの山々に囲まれたスイスには数多くの峠が存在するが、その中でも有名なのが南部のイタリア方面へ抜ける途中にあるゴッタルド峠だ。かつてはこの峠を越えようとして遭難するものも多く、13世紀ごろまでは道も険しく主要路としては機能していなかった。特に両岸が断崖絶壁となっているロイス川を渡るのがかなりの困難で、ロイス川を渡る石橋が「悪魔の橋」と呼ばれており、悪魔と契約して作ったという俗話が残っているほどだ。

 このように険しいゴッタルド峠なのだが、スイス・チューリッヒからイタリア・ミラノ方面へ抜けるためにはここを抜けるのが最短ルートになっている。1888年には、多大なる殉職者を出したゴッタルド鉄道トンネルが開通し、スイスとイタリアをスムーズに鉄道で結ぶことができるようになり物流を大きく変えた。その後、1980年にはゴッタルド道路トンネルが開通し着実に交通の要衝としてゴッタルド峠一帯は重要度を増していった。

 そして、更なる輸送の高速化、効率化を目指すため、既存のゴッタルド鉄道線をアルプスの山々を貫く長大トンネル線で置き換えることになった。険しい勾配を克服するため、ループ線が連続するこの区間は速度向上が難しく、近年の物流量の増加に対して限界を迎えていたこと、環境保護のため鉄道貨物の利用増加が求められていたことから、高速で輸送可能な平坦な路線が求められていたのだ。そこで、全長57キロからなるゴッタルドベーストンネルをアルプスの峰々を貫いて建設することでこれを解決しようとしたのだ。1996年から始まった建設であったが、難工事の末20年近くたった2015年に完成をみた。そして2016年には営業運転が開始され、ゴッタルド峠を通過する列車の大部分がゴッタルドベーストンネルを通過するようになった。旧線は廃線とならず、現在も使用されているが、トンネル開通後はローカル電車と観光列車、ごく少数の貨物列車のみとなっている。昨年初秋に渡欧した際、ゴッタルド峠にはVSOEを撮影しに訪問した(Report No.104 走る舞台 - ぽっぽ屋備忘録)。このとき、VSOEが通過する前に数少ない貨物列車を撮影することができた。f:id:limited_exp:20180206231218j:plain

 まだ山影から太陽が昇る1時間ほど前、重々しい電機の唸りが聞こえたかと思うと、Re4/4(現Re420)とRe6/6(現Re620)の異種重連、通称Re10/10に牽引されてホッパ車たちが峠を登ってきた。先頭のRe4/4がシール式前面車番に変更されいることや次位のRe6/6がXrail塗装なのが些か気になるところではあるが日本ではなかなかお目にかかることのできない電機罐の異種重連運用に胸躍らせシャッターを切った。

Report No.117 懐かしのシュプール

 かつてはブルートレインなどの優等列車から普通列車まで、客車列車は幅広く運転されていたが、今や一部のイベント用などの波動用輸送や観光列車を除いてめっきりその数を減らしてしまった。特に2000年代以降、低価格な高速バスの台頭や新幹線サービスの向上、航空券の低下価格が進み、機関車牽引ゆえに速度向上が図りにくい客車を使用していた寝台列車や夜行列車は老朽化も相まってそれらとの競争に敗れる形で次々と後を追うように廃止・設定取消になっていった。そういった列車のうちの一つが2009年まで運転されていた臨時快速ムーンライト九州である。

 ムーンライト九州は当時、スキー客向け臨時列車「シュプール」用として改造されていた14系を使用していた。シュプール号用として改造されたものの、2000年代に入って以降はシュプール号そのものの運行が減少したためムーンライト九州をはじめ、その他団体臨時や乗務員訓練に使用されることのほうが多くなっていた。だが、元々老朽化が進んでいたこともあり、そういった運用は長続きせず、2008~2009年の年末年始を最後にムーンライト九州の設定がされなくなるといよいよ車両所で暇を持てあますだけとなっていた。特に、2005年に福知山線脱線事故の影響で、その当時JR西日本では鉄道イベントや特別企画の多くが自粛されていたことも運用減少に影響していた印象がある。

 そんな中、2009年春、福知山線北部の利用促進を図るため団体臨時列車「恐竜列車ちーたん号」というこれまたなんともコミカルな名前の列車がシュプール用14系で運転される運びとなった。列車名の由来は丹波地方で発掘されたティタノサウルス類の恐竜の化石であったと記憶している。運転区間は下滝~福知山~丹波口間で、シュプール用14系6両を使用し福知山線内ではDE10により牽引され最後尾にDD51を連結する形で運転され、福知山からはDD51によって山陰本線を上るという運行形態だった。シュプール用14系の去就が噂される中での運転設定であったので、なんとしても行かねばならぬと思い、当時買ったばかりのカメラを片手に始発列車に飛び乗り山陰本線 胡麻~鍼灸大学前のストレートへ向かったのだった。

 もはや9年近く前のことであり、記憶もあやふやではあるのだが、春のまだ寒いうちだというのに撮影地は朝早くから多くのギャラリーでにぎわっていた覚えがある。当時まだ置換発表のされていなかった485系改造の183系800番台などを撮影しつつ10時頃の通過を待った。

f:id:limited_exp:20180131212946j:plain

 晴天の中、DD51-1183に牽かれてシュプール14系6両がやってきた。中間車はそうでもなかったのだが、頻繁に使用される先頭車は退色や一部の錆や劣化が進んでおり、老朽化を如実に表していた。

 この運転のあとも幾度か恐竜列車ちーたん号の設定はあったのだが、これ以後シュプール14系が使用されることはなく、「あかつき」廃止で用途廃止となった14系寝台車などと共に同年7月に下関へ廃車回送されたのだった。

Report No.116 異端児

 かつては雪国の鉄路の象徴とも言えた除雪車だが、近年では国鉄時代に製造されたものの老朽化廃車や除雪モーターカーの置換導入、降雪量の減少による用途廃止によって徐々にその数を減らしている。だが中には除雪車としての使用を終えたのち、その他の用途に転用されたものが存在する。現在JR貨物に所属するDE10形3000および3500番台がその一例で、これらはもともとJR東日本に所属していたラッセル式除雪車、DE15であり、モーターカーへの置き換えに伴って余剰となったものを貨物機として再整備したものである。DE15は除雪用ラッセルヘッドの連結器が装備されていることなど一部の細かい差異を除けば基本的にDE10と何ら基本設計は変わらないので、そのままの状態でも貨物機として使用できる。だが、JR貨物への転用にあたっては使用しないラッセルヘッド連結器、ブレーキ配管などが撤去されDE10へと編入された。これによってぱっと見は他のDE10と変わらないように見えるようになったのだが、よくよく見ればDE15由来であることがわかる。例えば、ボンネット前部のオデコ部分にあるフックや少し外側に寄った尾灯などがその痕跡である。ボンネットのオデコ部分のフックはDE10では本来ボンネット前部のナンバープレートの真上、車体中央部のところに設置されているのだが、DE15ではここにラッセルヘッド用連結器を装備していたことから邪魔になるためフックが正面向かって左側にうつされている。このためその特徴を受け継ぐDE10-3000/3500ではフックが中心からオフセットされた場所にあるのだ。尾灯もDE15ではラッセルヘッド用連結器を避けるように車体外側に尾灯が寄せられていたため、他のDE10と違い少し”離れ目”になっている。他にも前面部のルーバーの有無や点検蓋のサイズなどDE15譲りの部分が散見される。

 現在、DE10-3000/3500は主に仙台と東新潟機関区に所属しており、本線での貨物列車牽引運用をこなす傍ら、入れ替え機としても使用されている。だが本線運用は決して多いわけではなくなかなか狙いにくいというのが実情だ。ひょんなことから信越地方で出向くことがあり、その帰り道、ついでにと立ち寄ったのがその少ない本線運用の一つが見れるJR貨物新湊線だった。ちょうど田植えが始まったころの5月であったのであわよくば沿線の田んぼで水鏡ができないかと思ったのだが現実はそう甘くなかった。たしかに田に水は張られていたのだが、時すでに遅し、苗が植え付けられた後だった。まぁこういう日もあるさ、と友人たちと話しつつ農道に陣を張り主役の登場を待った。f:id:limited_exp:20180122234202j:plain

五月晴れの中、ゆっくりとやってきたのはDE10-3513牽引の高岡貨物行の貨物列車。水鏡ができなかったのは残念だったがやってきたのはDE15改造の異端児。少し儲けものだ。

 原型DE10も捨てがたいところだがこういった変形機もまた別の意味で写欲をくすぐる。機会があればぜひまた再訪したいところだ。

Report No.115 四国色

 JR化後、各地でそれぞれの地域にちなんだ色を使用した所謂”地域塗装”や”地域色”と呼ばれる塗装が車両に施されるようになった。単調な色と塗分けが多かった国鉄色に対して、地域色ではさまざまな色で斬新な塗分けを採用することでブランド化を図るだけでなく卒・国鉄を印象付ける目的もあったのだろう。

 JR四国では、国鉄から継承した車両の多くを四国色と呼ばれるアイボリー地にコーポレートカラーの水色帯を巻いた塗装に変更し、車両のイメージアップを図った。車両によって塗分け方に差異はあるものの、車体上半分と下半分で塗分けるなどの簡単な塗分けが多かった国鉄色に対して、四国色では細帯を取り入れたり、前面は斜めで塗分けたりと意匠を凝らした塗装になった。一時期は四国島内の車両の大多数がこの塗装を纏っていたが、その後の車両置換や塗装変更でずいぶんと数を減らしてきている。さらに言えば、JR化後に製造された新系列普通車気動車にはこの塗分けが継承されなかったことから四国色を纏っているものは国鉄型のみである。

 お盆も過ぎたころの昨年8月、夏の鉄道風景を撮りに行こうと徳島へ赴いた際(Report No.113 夏休み - ぽっぽ屋備忘録)、ついでにとこの四国色を纏ったキハ40系列を撮影することにした。徳島に所属するキハ40系列について言えば、現在既に主力運用は新型車両にとって代わられており、もっぱら路線末端運用やラッシュ時運用、臨時運用のほうが主となっている。更には一部車両が国鉄時代の朱色一色塗装「首都圏色」に変更されていることもあり四国色で統一された編成を撮ることは以前ほど簡単ではなくなってきているのだ。

 さてさて、そんな状況の中、夏場おいしい運用として被写体に選んだのは牟岐線の朝の3連運用530D。この列車は徳島側からキハ40、キハ47、キハ47の順で組まれた編成で運転される列車だ。そもそも時間帯的に撮影できる箇所は数か所しかないのだが、お盆も過ぎると徐々に秋の訪れとともに日の出時刻は遅くなり、太陽方位も南に下がってくるため、撮れる場所はさらに制限されてくる。そこで選んだのが牟岐線は阿波中島-阿南の築堤区間だった。

f:id:limited_exp:20171204025308j:plain

 まだまだ残暑厳しい中、田んぼ脇に友人たちと陣を張り四国色3連がやってくることを祈りながら待った。7時半ごろ、夏空の元、四国色3連キハ40がやってきた。背景奥には育ちだした積乱雲らしき雲、手前には重く頭を垂れだした稲穂。夏の匂いにどこか懐かしいディーゼルの香りを混ぜて四国色が駆け抜けていった。