ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.89 白電

 直流と交流両方の電源区間をもつ常磐線山陽本線鹿児島本線での運用を目的として唯一の交直流両用近郊型電車として開発されたのが415系列である。登場時1960年から1961年製造分までの間こそあずき色の地にクリーム帯を巻いた交流電車標準塗装、いわゆる赤電塗装であったが、その後は白地に青帯を巻いた塗装にとって代わり、”白電”として親しまれるようになった。かつては常磐線で15両などの長大編成を拝めたが、常磐線から引退し早10年、今は九州北部で細々と運用されるのがほとんどになってしまった。811系や813系、817系などの後継車の導入に伴い、九州地区の415系運用もこの数年で大幅に削減されており、近い将来彼らもまた記録の中の存在になるのだろう。

 現在の最長編成運用はステンレス車1500番台が入ることが多い門司港発南福岡行の3223M、12両編成。その次は荒尾発博多行快速1322Mの8両、そしてその少しあとの荒尾発福間行2330Mの8両である。1322Mおよび2330Mは、白電の4両+4両の8両で早朝の鹿児島本線を上る運用なので、白電統一の編成を狙うならうってつけの運用である。ただし、2330Mは平日のみの運行である。

去る2017/4/29、 JR九州787系が撮りたくなったこともあって九州へ出向いたので、朝の787系有明2号を撮るついでにと1322Mも狙ってみることにした。最終の新幹線で博多に入り、友人と落ち合って鹿児島本線は渡瀬〜南瀬高のストレートへ赴いた。

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 晴れ予報だったはずなのだが、あいにくの春霞で太陽は見えるが光線はトロ火、まぁこんな日もあるさと友人と慰め合いつつ通過を待った。

 そしてしばらく待つと柔い朝日の中白電8両は心地よく駆けてきた。常磐線のころとは少し迫力が落ちるが、統一された編成美は全盛期を彷彿とさせた。願わくば次は常磐線からの移籍車先頭で撮りたいトコロだ。

Report No.88 寝台列車

 昨今はJR九州の「ななつ星」に代表されるような所謂「豪華寝台列車」と呼ばれるようなものがJR西日本JR東日本から発表され新たな寝台列車時代を迎えようとしている。かつての寝台列車といえば地方と都市部を結ぶ広域大量輸送手段だったのだが、高速バスや飛行機、新幹線の発達とともに衰退していった。もちろん、理由はそれだけではなく、料金体系や速達性などの課題もあった。例えば、東京~大阪間で運転していた寝台急行「銀河」は、下りの場合、東京23:00発、大阪7:18着で東京~大阪間で全区間乗車すると一番安いB寝台利用でも運賃と寝台料金を合わせて合計16070円であった。対して、現在の夜行バスの場合、東京を0時前に出発し銀河とほぼ同時刻に大阪着で1万円以下のものがほとんどだ。

 もちろん寝台列車であれば高速バスと違って寝台で横になって寝ることができるが、銀河で提供されていたのは国鉄時代に設計された寝台客車であり、横幅こそ改善されたものの寝台の縦幅は戦前から大差ない190㎝強ほどだった。日本人の平均身長が戦後格段に伸びていることを考えれば、寝台は相対的に圧迫感を覚えることになるわけで、新幹線などの速達手段などと比べると値段に見合ったサービスとは受け取られ難く、サービスの劣化として受け取られてしまったという一面もあるのだろう。料金体系も、航空券のように早期予約割引などの採用があればまた状況が変わっていたかもしれない。更にいえば、インターネットの普及に対して鉄道という業界が遅れがちだったというのもあるのだろう。今や航空券や高速バスはインターネットで気軽に予約できクレジットカードのみならずコンビニでも支払いができる時代だが、JRのほどんどの鉄道の予約サービスそこまでユーザーフレンドリーではない。

 車両維持費がバスなどに比べて格段に高いのは事実であったし、それに見合う利益が出ていたかといわれると多くの列車でそうではなかった。ほとんどの寝台列車が機関車牽引という終着駅や始発駅での機回しなどダイヤ上の制約の多い中、サービスを向上させながら利益率を上げるというのはなかなかにむつかしい話だった。しかし車両を更新するほど利益がでるわけでもないので廃止という道をたどらざるを得なかった。欧米の鉄道のように機関車牽引であっても制御客車を導入することでダイヤ上の制約を軽減したり、量産型汎用客車をカスタマイズするなどの手法が日本では取られなかった、または取れなかったことも原因のひとつなのだろう。

 今やブルートレインと呼ばれ夜を駆け抜け、日本を支えた列車たちをもう見ることはできないわけだが、トラックやバス運転手の人員不足が叫ばれる昨今、鉄道というシステム全体の改革が求められているのかもしれない。f:id:limited_exp:20170426230517j:plain

 写真は寝台特急日本海」が廃止される直前に撮ったものである。ヘッドマークとテールマークを掲げ、機関車に牽引される青い列車ほど旅情を掻き立ててくれるものは他にあるのだろうか。今の世代の子供たちがこれらを見ることができないのはいささか可哀想な感じもする。

Report No.87 赤鬼

 愛知機関区に所属するDD51の多くはスノープロウの代わりにATS保護板を装着している。元々スノープロウ装着機だったとしても現在は外してしまっているものがほとんどだ。あまり雪など降らない温暖な中京圏の運用しかないため、必要になる場面が稀だからだ。ただ、スノープロウ装着でないと少し間抜けな顔に見えてしまうのが残念なところ。現在スノープロウを装着している機関車はDD51-857、1801、1803、1804の4両。原色機でスノープロウを装着している機関車がいないのがこれまた残念なところではあるがもはや貨物を牽く風景をみられるのは愛知機関区のみ。贅沢は言えぬ時代ということなのだろう。

 そんなスノープロウ装着機たちだが、昨年末、ネットでにわかに話題になったことがあった。なんと、スノープロウの先端が白に近いグレーで再塗装されたのだ。国鉄時代やJR西日本後藤車両所所属のDD51にはスノープロウ先端に白い色差しが施されているのだが、これまで愛知機関区の機関車にはされていなかった。白線が少し塗られているだけでスノープロウの存在感は各段に上がる。情報を聞いてから、何としてでも撮りたいと思い、晴れと運用が重なることを願った。

 年末、朝の石油貨物5263レを撮った後、セメント貨物を狙おうと行った海蔵川。運用を見てみると、ちょうど噂のスノープロウ装着1801号機がセメント運用に入っていた。雲が散見されたが、太陽方向は快晴。朝の絶好の光線でセメント貨物を待ちうけた。

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 エンジンをふかして、エギゾーストを轟かせながら1801号機が海蔵川の築堤を上ってきた。赤い機関車に連なる黒い貨車たち。青空に映える組み合わせで存在感を放つスノープロウ。この日はこの後気分上々で三岐鉄道北勢線で撮影し帰宅した。

こんな風景もあと数年後にはなくなってしまうのかもしれないと思うと残念でならないが、それまではしばし彼らの活躍を追っていきたい。

Report No.86 潮風

 山陰本線に「出雲」の名前が帰ってくる、そんな胸踊る発表がされたのは2017年の始めのころであっただろうか。14系サロンカーなにわ5両を使用してDD51が牽引し、大阪〜米子を往復の運行で、往路はだいせん、復路は出雲のヘッドマークを掲げて走るという大盤振る舞いな企画であった。さて、前回(

Report No.82 11年前 - ぽっぽ屋備忘録

)米子付近での撮影について書いたので今回はその先、東浜での撮影について記したいと思う。

 松崎〜泊で撮影後、大急ぎで撤収。高速とバイパスをひた走り、サロンカーを追い抜きやってきたのは東浜駅日本海を眼下に望むいわゆる東浜俯瞰。この俯瞰、高規格道路のすぐ真横に位置しておりとてもアクセスはいいのだが、道から先は急斜面を5分ほど登らなければならない。現地に着いて山を仰ぐと、すでに大勢のギャラリーが集っていた。三脚とフィルムカメラとデジタル一眼を担いで汗をだらだらとかきながら斜面を登って最初のポイントへ行ってみたのだが構図の定員的に少し厳しいと判断して恐る恐る下山。もう一つの山のほうへ上ってみると、なるほど、ここなら撮れそうだということで設営。途中、偶然大阪から来た知り合いにも合うことができしばし談笑という名の情報交換をした。時刻を見てみると思っていたよりは通過まで時間があり、悠々とセッティングすることができた。

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 隣に入れていただいた方と少し話しながら待っていると比較的ゆっくりとした速度でDD51がサロンカーなにわを引き連れてやってきた。実はこの日の予報は曇りだったのだが、晴れてくれて何よりだった。青くそして少し春霞がかかった日本海というのもある意味オツなものではなかろうか。

Report No.85 残影

  国鉄型の急行型、特急型車両はその多くが分散冷房を採用していた。153系、165系、455系、485系、キハ58などなど、国鉄の顔を代表したような車両の多くが分散冷房であった。これは、分散冷房を採用することで騒音が減ること、屋根にダクトを設置する必要がないため車内空間が広くなること、車体の補強が最低限でよいことなどが理由としてあった。特に、分散型冷房が採用された車両の多くは、特急車を除くと初期には非冷房で落成し後年冷房化改造されたものが多かった。改造の手間、費用を減らすという意味でも分散冷房は最適だったのだ。

 そんな分散型冷房装置の中で最も多く製造・使用されていたのがAU13形。485系165系、キハ58といった車両に採用されていたものだ。パンタグラフ搭載車についてはスペースの関係上集中冷房式が採用されいたが、他の車両では基本的に1両につき5基から6基のAU13を搭載していた。このAU13形は一部115系の初期車の冷房化改造においても使用された。そのうちの1両が現在(2017年4月5日現在)下関総合車両所に所属するクハ115-608である。115系の初期車の中でもAU13を用いて冷房化改造されたのはクハ115-607およびクハ115-608のみで、さらには607はAU13を4基のみ搭載する異端車で、608は他の急行型などと同様6基搭載するという形だった。ただし、608は6基搭載するものの、おそらく車両強度の問題から165系や455系のように均等な間隔でクーラーが配置できず、ドア付近上部に2基ずつまとまって配置するという手法をとっておりこちらもこちらで異端車である。クハ115-607は2012年に廃車されており、残るAU13搭載115系は現在クハ115-608のみである。現在、クハ115-608は下関C-13編成の下関方先頭車を務めており、下関車の他115系と共に三石から下関までの広範囲で運用されている。

 さて、去る4月3日に、偶然岡山に用事があり出向いていた際、ふと気になって友人にC-13編成の運用を調べてもらうと、夕方日没直後に岡山へやってくる運用であった。さすがに順光では撮影できないのでここはひとつ、夕焼けのシルエットにして分散冷房を目立たせるのも一興なのではと考え、ロケハン。山陽本線中庄~庭瀬間にちょうどよいところを発見し、日没前から出向いてみた。

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 田圃のあぜ道に陣を構えること1時間半ほど、お目当てのC-13編成が358Mの運用で岡山へ上ってきた。あたりはちょうど日の暮れたトワイライトタイム。分散冷房を6基載せた2段式窓の東海顔シルエットはさながらかつての急行型電車を彷彿とさせるようだった。

Report No.84 国鉄からJRへ

 30年前の今日、1987年3月31日、日本国有鉄道は最後を迎え、翌日から日本国有鉄道は、JR7社として分割され民営化された。第二次世界大戦後、鉄道省からその役目を引き継いで誕生した国鉄であったが、戦後の加速度的なモータリゼーションや空路の大衆化に勝てず不採算路線が増えたこと、また我田引鉄とも呼ばれた政治的な路線敷設などで赤字が拡大したこと、労組問題の悪化したことなど様々な負の要因が重なり合い、民営化への道をたどることになった。

 分割民営化されJRとなり、以後車両は各社独自に開発されるようになり、徐々に国鉄型の置換が進んでいる。それでも、国鉄型は数を減らしつつも今日も各地で鉄路を支えている。ただし、民営化30年で国鉄車両残存率は大幅に下落しており、40周年を迎えるころにはほぼ0に等しいほどになっていてもおかしくはないかもしれない。

 さて、この30年の節目に当たって、JR貨物では期間限定で一部機関車に30周年ヘッドマークを掲出し運用している。知人から期間限定で愛知機関区DD51にもヘッドマークがつくと教えていただき、急きょ四日市方面へ繰り出すこととなった。あいにくの雨で迎えた3月最後の日、ヘッドマークを取り付けたDD51-1802は2089レから始まる運用で運行していた。

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 桑名駅少し南の踏切近くで雨に打たれながら30周年ヘッドマークを掲げた1802号機率いるコンテナ貨物を撮影。晴れてくれれば一番だが、期間限定では天気は選んでおれぬ、というのが本音。致し方ない時もあるものだと割り切るしかないのだろう。なんにせよ、民営化30年たった今でもDD51が現役ということに感謝である。

Report No.83 南国

 日本からさほど遠くない南国・台湾。台湾は日清戦争の後、下関条約によって当時の清から大日本帝国へ割譲され、以後第2次世界大戦終戦の1945年まで日本の統治下にあった。日本統治下において、台湾では上下水道をはじめ、電気、道路、鉄道など様々な社会インフラの整備が行われた。現在台湾鉄路管理局がもつ鉄路の大部分が1067mmの日本の在来線と同じ規格で日本時代に敷設されたものである。そのうちの一つが八堵駅から蘇襖駅を結ぶ93.6kmの路線、宜蘭線である。宜蘭線は、東部幹線を構成する台湾東部の大動脈であり、数多くの優等列車、貨物列車が運行されている。貨物列車はコンテナ輸送から車扱貨物、セメント貨物、石灰石貨物など様々なものが運行されており、更にいえば、一部貨物列車には車掌車がつくほどで、さながら数十年前の日本のようである。

 そんな台湾の貨物列車は以前から気になってはいたのだが、時間がなくなかなか踏み出せずにいた。しかし、この3月、所用で台湾へ赴くことになったため、少しの合間をぬって貨物の撮影に出かけてみることにした。もちろん、事前に撮影地を調べる程度のことはしたのだが、貨物列車のダイヤについては全くと言っていいほど調べておらず、いわば「行って撮れたら儲けもの」程度の考えであった。

 向かった撮影地は宜蘭線 四脚亭~瑞芳のS字カーブ。台湾の貨物列車は、同じ列車であっても日によって編成長が大きく変動すると聞いていたので、それならば、長編成だと編成は巻くがキレイに収まるS字がいいではないかと向かったのだった。撮影地に着いたのは14時ごろ。ついて早々、石灰石貨物を見逃してしまいショックを受けた。その後、やってくるのは区間車と呼ばれるいわゆる普通電車ばかり。頭を抱えていると電気機関車がやってきたのだがどうも編成が短い。なんと、車掌車1両のみの回送。これではおさまりがつかないとそのまま撮影続行。そして14時40分ごろ、待ちに待った”ちゃんとした貨物”がやってきた。

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 オレンジ色の電気機関車、E300形に牽引されてやってきたのはセメント貨物。日本で言えば三岐鉄道などが輸送している類のものだ。轟音と共に過ぎ去っていく貨物列車。表記を見るとどことなく日本国有鉄道で使用されていたものに似たフォントの文字が使用されていた。異国でありながら日本のような不思議な雰囲気を纏った台湾の鉄道。次はぜひ腰を据えて撮影に出向きたいものだ。