ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.86 潮風

 山陰本線に「出雲」の名前が帰ってくる、そんな胸踊る発表がされたのは2017年の始めのころであっただろうか。14系サロンカーなにわ5両を使用してDD51が牽引し、大阪〜米子を往復の運行で、往路はだいせん、復路は出雲のヘッドマークを掲げて走るという大盤振る舞いな企画であった。さて、前回(

Report No.82 11年前 - ぽっぽ屋備忘録

)米子付近での撮影について書いたので今回はその先、東浜での撮影について記したいと思う。

 松崎〜泊で撮影後、大急ぎで撤収。高速とバイパスをひた走り、サロンカーを追い抜きやってきたのは東浜駅日本海を眼下に望むいわゆる東浜俯瞰。この俯瞰、高規格道路のすぐ真横に位置しておりとてもアクセスはいいのだが、道から先は急斜面を5分ほど登らなければならない。現地に着いて山を仰ぐと、すでに大勢のギャラリーが集っていた。三脚とフィルムカメラとデジタル一眼を担いで汗をだらだらとかきながら斜面を登って最初のポイントへ行ってみたのだが構図の定員的に少し厳しいと判断して恐る恐る下山。もう一つの山のほうへ上ってみると、なるほど、ここなら撮れそうだということで設営。途中、偶然大阪から来た知り合いにも合うことができしばし談笑という名の情報交換をした。時刻を見てみると思っていたよりは通過まで時間があり、悠々とセッティングすることができた。

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 隣に入れていただいた方と少し話しながら待っていると比較的ゆっくりとした速度でDD51がサロンカーなにわを引き連れてやってきた。実はこの日の予報は曇りだったのだが、晴れてくれて何よりだった。青くそして少し春霞がかかった日本海というのもある意味オツなものではなかろうか。

Report No.85 残影

  国鉄型の急行型、特急型車両はその多くが分散冷房を採用していた。153系、165系、455系、485系、キハ58などなど、国鉄の顔を代表したような車両の多くが分散冷房であった。これは、分散冷房を採用することで騒音が減ること、屋根にダクトを設置する必要がないため車内空間が広くなること、車体の補強が最低限でよいことなどが理由としてあった。特に、分散型冷房が採用された車両の多くは、特急車を除くと初期には非冷房で落成し後年冷房化改造されたものが多かった。改造の手間、費用を減らすという意味でも分散冷房は最適だったのだ。

 そんな分散型冷房装置の中で最も多く製造・使用されていたのがAU13形。485系165系、キハ58といった車両に採用されていたものだ。パンタグラフ搭載車についてはスペースの関係上集中冷房式が採用されいたが、他の車両では基本的に1両につき5基から6基のAU13を搭載していた。このAU13形は一部115系の初期車の冷房化改造においても使用された。そのうちの1両が現在(2017年4月5日現在)下関総合車両所に所属するクハ115-608である。115系の初期車の中でもAU13を用いて冷房化改造されたのはクハ115-607およびクハ115-608のみで、さらには607はAU13を4基のみ搭載する異端車で、608は他の急行型などと同様6基搭載するという形だった。ただし、608は6基搭載するものの、おそらく車両強度の問題から165系や455系のように均等な間隔でクーラーが配置できず、ドア付近上部に2基ずつまとまって配置するという手法をとっておりこちらもこちらで異端車である。クハ115-607は2012年に廃車されており、残るAU13搭載115系は現在クハ115-608のみである。現在、クハ115-608は下関C-13編成の下関方先頭車を務めており、下関車の他115系と共に三石から下関までの広範囲で運用されている。

 さて、去る4月3日に、偶然岡山に用事があり出向いていた際、ふと気になって友人にC-13編成の運用を調べてもらうと、夕方日没直後に岡山へやってくる運用であった。さすがに順光では撮影できないのでここはひとつ、夕焼けのシルエットにして分散冷房を目立たせるのも一興なのではと考え、ロケハン。山陽本線中庄~庭瀬間にちょうどよいところを発見し、日没前から出向いてみた。

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 田圃のあぜ道に陣を構えること1時間半ほど、お目当てのC-13編成が358Mの運用で岡山へ上ってきた。あたりはちょうど日の暮れたトワイライトタイム。分散冷房を6基載せた2段式窓の東海顔シルエットはさながらかつての急行型電車を彷彿とさせるようだった。

Report No.84 国鉄からJRへ

 30年前の今日、1987年3月31日、日本国有鉄道は最後を迎え、翌日から日本国有鉄道は、JR7社として分割され民営化された。第二次世界大戦後、鉄道省からその役目を引き継いで誕生した国鉄であったが、戦後の加速度的なモータリゼーションや空路の大衆化に勝てず不採算路線が増えたこと、また我田引鉄とも呼ばれた政治的な路線敷設などで赤字が拡大したこと、労組問題の悪化したことなど様々な負の要因が重なり合い、民営化への道をたどることになった。

 分割民営化されJRとなり、以後車両は各社独自に開発されるようになり、徐々に国鉄型の置換が進んでいる。それでも、国鉄型は数を減らしつつも今日も各地で鉄路を支えている。ただし、民営化30年で国鉄車両残存率は大幅に下落しており、40周年を迎えるころにはほぼ0に等しいほどになっていてもおかしくはないかもしれない。

 さて、この30年の節目に当たって、JR貨物では期間限定で一部機関車に30周年ヘッドマークを掲出し運用している。知人から期間限定で愛知機関区DD51にもヘッドマークがつくと教えていただき、急きょ四日市方面へ繰り出すこととなった。あいにくの雨で迎えた3月最後の日、ヘッドマークを取り付けたDD51-1802は2089レから始まる運用で運行していた。

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 桑名駅少し南の踏切近くで雨に打たれながら30周年ヘッドマークを掲げた1802号機率いるコンテナ貨物を撮影。晴れてくれれば一番だが、期間限定では天気は選んでおれぬ、というのが本音。致し方ない時もあるものだと割り切るしかないのだろう。なんにせよ、民営化30年たった今でもDD51が現役ということに感謝である。

Report No.83 南国

 日本からさほど遠くない南国・台湾。台湾は日清戦争の後、下関条約によって当時の清から大日本帝国へ割譲され、以後第2次世界大戦終戦の1945年まで日本の統治下にあった。日本統治下において、台湾では上下水道をはじめ、電気、道路、鉄道など様々な社会インフラの整備が行われた。現在台湾鉄路管理局がもつ鉄路の大部分が1067mmの日本の在来線と同じ規格で日本時代に敷設されたものである。そのうちの一つが八堵駅から蘇襖駅を結ぶ93.6kmの路線、宜蘭線である。宜蘭線は、東部幹線を構成する台湾東部の大動脈であり、数多くの優等列車、貨物列車が運行されている。貨物列車はコンテナ輸送から車扱貨物、セメント貨物、石灰石貨物など様々なものが運行されており、更にいえば、一部貨物列車には車掌車がつくほどで、さながら数十年前の日本のようである。

 そんな台湾の貨物列車は以前から気になってはいたのだが、時間がなくなかなか踏み出せずにいた。しかし、この3月、所用で台湾へ赴くことになったため、少しの合間をぬって貨物の撮影に出かけてみることにした。もちろん、事前に撮影地を調べる程度のことはしたのだが、貨物列車のダイヤについては全くと言っていいほど調べておらず、いわば「行って撮れたら儲けもの」程度の考えであった。

 向かった撮影地は宜蘭線 四脚亭~瑞芳のS字カーブ。台湾の貨物列車は、同じ列車であっても日によって編成長が大きく変動すると聞いていたので、それならば、長編成だと編成は巻くがキレイに収まるS字がいいではないかと向かったのだった。撮影地に着いたのは14時ごろ。ついて早々、石灰石貨物を見逃してしまいショックを受けた。その後、やってくるのは区間車と呼ばれるいわゆる普通電車ばかり。頭を抱えていると電気機関車がやってきたのだがどうも編成が短い。なんと、車掌車1両のみの回送。これではおさまりがつかないとそのまま撮影続行。そして14時40分ごろ、待ちに待った”ちゃんとした貨物”がやってきた。

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 オレンジ色の電気機関車、E300形に牽引されてやってきたのはセメント貨物。日本で言えば三岐鉄道などが輸送している類のものだ。轟音と共に過ぎ去っていく貨物列車。表記を見るとどことなく日本国有鉄道で使用されていたものに似たフォントの文字が使用されていた。異国でありながら日本のような不思議な雰囲気を纏った台湾の鉄道。次はぜひ腰を据えて撮影に出向きたいものだ。

Report No.82 11年前

 2006年3月17日発の運転をもって客車寝台特急「出雲」が廃止された。そして、これをもって山陰本線におけるDD51の定期運用および客車列車は消滅となった。それから11年の今年、山陰本線DD51牽引でサロンカーなにわを使用した団体臨時列車が走ることになった。これまでも団体臨時として山陰本線を走ったことのある組み合わせだったのだが、今回は少しワケが違った。なんと「出雲」、「だいせん」ヘッドマークをつけて走るというのだ。北海道の北斗星亡き今、山陰本線非電化区間DD51牽引の客車列車が走ってくれることだけでも個人的にはありがたかったのだが、さらにはレプリカとは言え「出雲」のヘッドマークを掲げるとあって久々にアツい熱意が湧いてきた。

 運転日は偶然か故意か3月18日~3月20日で、最終寝台特急「出雲」が終着した日からの運転であった。事前情報では大阪から米子までの下り、往路が「出雲」ヘッドマーク、上り、復路が「だいせん」だったのだが、18日夜に目撃を見てみるとなんと往路「だいせん」、復路「出雲」になっていた。大阪を夜出発し早朝米子へ到着する往路のダイヤと異なり、復路は米子を朝出発し夕方大阪に着く設定で、光線状況が良好な撮影地が多かったため、これは願ったりかなったりであった。

 18日に往路から撮るため車を走らせ友人を拾いつつ西へ向かい19日朝、米子界隈で往路便を撮影。薄雲に阻まれなんとも微妙な結果に終わった往路だったのだが、天気予報を見ると復路運転日の翌日20日の予報が回復しており、一縷の望みをかけて20日を迎えた。20日は前日同様、薄雲はかかっていたのだが19日とは比べ物にならないほど薄く、比較的太陽光線は良好。この時期まだ冷え込む日本海側の気温に身震いしながら大山口~名和のストレートに陣取った。

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 朝の斜光線に出雲のヘッドマークを掲げ、DD51がサロンカーなにわを5両引き連れて快走してきた。かつての寝台特急出雲は朝に西に向かう列車であっただけに朝日の元これを撮影しているというのはいささか不思議な感じもする。名和で撮影後は赤碕での停車を利用して先回り。松崎~泊で撮影することにした。わかってはいたことだが、さすがに有名撮影地とあって大勢の人出。なんとか場所を見つけ、別行動だった友人とも合流しての撮影となった。

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 松崎~泊は少し線路が北を向いて走るためこの時間帯の光線は2/3面光。最もDD51の鼻スジがよくわかる光線だ。鼻筋をくっきりと浮かび上がらせながら「出雲」ヘッドマークも誇らしげに築堤を駆けあがってきた。

 この後も東浜、竹野、市島と追っかけて撮影し、満足感に浸りながら帰宅の途についた。寝台客車亡き今、青でこそなかったものの、往年のヘッドマークのレプリカを使用して客車列車を運転してくれたことに感謝感激の一言だった。

 

Report No.81 Ready

 駅と言うと、多くの人が想像するのはホームがあり旅客が乗降する場所だろう。だが、実際には、駅は大きく分けて2種類、旅客駅、貨物駅の2つがある。旅客駅は読んで字のごとく旅客が乗降するための駅。そして貨物駅は貨物の荷扱いを行う駅である。貨物駅はその性質上、旅客の乗降は行われないので一般の人からすると幻の駅と言ってもいいだろう。

 関西本線塩浜駅はそんな貨物駅の一つである。近鉄塩浜駅のすぐ真横に位置するJR貨物の塩浜駅は、信州方面への石油輸送を支える重要な駅である。塩浜駅からは昭和四日市石油への専用線が伸びており、毎日のように精製されたガソリンが信州へと発送されている。

 さて、塩浜駅は構内を公道が横切っており、夕方に発送される便をバルブすることができる。2017年1月5日、朝から四日市周辺で撮影していた。この日、夜はやはり75レの折り返しとなる6286レを塩浜でバルブしてシメることにした。塩浜についてみるとちょうど入れ替えがおわり6286レが発車を待っている状態だった。

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 牽引は赤鼻のDD51-825を先頭に、825号機と同じく三分割ラジエーターのDD51-1028との重連。この間まであまり巡り合わせ良くなかった825号機だが最近どうやら巡り合わせがよくなってきたようだ。念願だった塩浜バルブも撮影でき満足な一日であった。

Report No.80 Winter Present

 去る2017年3月4日、JR各社でダイヤ改正が実施された。今回の改正で個人的に一番驚いたのは愛知機関区DD51の石油運用である。今まで、石油運用は定期・臨時含め最大5往復設定されていたのだが、今回の改正で朝の5263レ~5282レ、および夕方の8075レ~6286レ(改正前75レ~6286レ)がDF200の運用となり、DD51が担当する残りの3往復は全て8000番台や6000番台の列車、つまり臨時便とされたのである。これには、2017年度からの四日市の石油製油設備の減産が影響しているという話もあり、将来的な減便は避けられないようだ。幸い、3月5日時点でDF200が四日市~塩浜間での試運転を行ったとの情報はないためDF200が受け持つこととなった2運用も、しばらくはDD51による代走が続くものと思われる。

 その他の運用を見てみると、コンテナ運用、セメント・フライアッシュ運用は改正前と変わらずDD51の運用として残存した。しかし重連が組まれるなど花形運用であった石油運用がダイヤ上臨時便にされたことは、愛知機関区のDD51の余命が幾ばくも無いということを如実に表しているように思えてならない。末期の日本海きたぐに、あけぼのなどがそうであったように定期からの臨時への格下げ、そしてしばらくしての設定なしという流れは想像にたやすい。ただし留意すべきは現状愛知機関区のDF200はDF200-223の1両のみであることだ。新たにDF200が追加配置されるまで、しばしはDD51たちの残りの活躍を見ることができるだろう。

 さて、この冬、1月16日に四日市周辺は記録的な豪雪に見舞われた。関西本線では雪による列車遅延やポイント不転換でダイヤは大幅に乱れ貨物にも運休が続出した。その翌日、1月17日はうって変わって午前中は快晴予報であった。雪景色を走るDD51を撮れるのはこれが最後かもしれないと急遽車を借りて四日市へ。朝の6287レ、5263レから狙えば雪をかくかもしれないと思い塩浜駅で構えたのだが、6287レは発送便が運休となっていたためか運転されず、5263レに至っては返却がなく重連回送。これでは収まりがつかないので藁をもつかむ思いで朝のセメント便を撮りに海蔵川へ。途中脱輪している車がありどうにも撮影地まで乗り付けるのは困難であったので脱輪していた車の後ろに駐車して雪に埋もれ道なき道となった農道を雪中行軍。なんとか通過5分前に定位置に着くことができた。

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 富田で留置を見るのを忘れていたのでどの罐が来るのかは完全にくじ引き状態だったのだが、やってきたのはDD51-825。A更新切り抜きナンバーの赤デコだった。雪に真っ赤な機関車。スノープローがないのが残念だが、雪景色の中スノープローなしの機関車というのも記録写真の意味合いとしてはある意味貴重かもしれない。

 今回の改正でも一応はDD51の運用として残ったセメント便。今後は石油便よりこちらがメジャーになるのかもしれない。