ぽっぽ屋備忘録

にわかな鉄道好きによる日々の撮影の備忘録

Report No.82 11年前

 2006年3月17日発の運転をもって客車寝台特急「出雲」が廃止された。そして、これをもって山陰本線におけるDD51の定期運用および客車列車は消滅となった。それから11年の今年、山陰本線DD51牽引でサロンカーなにわを使用した団体臨時列車が走ることになった。これまでも団体臨時として山陰本線を走ったことのある組み合わせだったのだが、今回は少しワケが違った。なんと「出雲」、「だいせん」ヘッドマークをつけて走るというのだ。北海道の北斗星亡き今、山陰本線非電化区間DD51牽引の客車列車が走ってくれることだけでも個人的にはありがたかったのだが、さらにはレプリカとは言え「出雲」のヘッドマークを掲げるとあって久々にアツい熱意が湧いてきた。

 運転日は偶然か故意か3月18日~3月20日で、最終寝台特急「出雲」が終着した日からの運転であった。事前情報では大阪から米子までの下り、往路が「出雲」ヘッドマーク、上り、復路が「だいせん」だったのだが、18日夜に目撃を見てみるとなんと往路「だいせん」、復路「出雲」になっていた。大阪を夜出発し早朝米子へ到着する往路のダイヤと異なり、復路は米子を朝出発し夕方大阪に着く設定で、光線状況が良好な撮影地が多かったため、これは願ったりかなったりであった。

 18日に往路から撮るため車を走らせ友人を拾いつつ西へ向かい19日朝、米子界隈で往路便を撮影。薄雲に阻まれなんとも微妙な結果に終わった往路だったのだが、天気予報を見ると復路運転日の翌日20日の予報が回復しており、一縷の望みをかけて20日を迎えた。20日は前日同様、薄雲はかかっていたのだが19日とは比べ物にならないほど薄く、比較的太陽光線は良好。この時期まだ冷え込む日本海側の気温に身震いしながら大山口~名和のストレートに陣取った。

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 朝の斜光線に出雲のヘッドマークを掲げ、DD51がサロンカーなにわを5両引き連れて快走してきた。かつての寝台特急出雲は朝に西に向かう列車であっただけに朝日の元これを撮影しているというのはいささか不思議な感じもする。名和で撮影後は赤碕での停車を利用して先回り。松崎~泊で撮影することにした。わかってはいたことだが、さすがに有名撮影地とあって大勢の人出。なんとか場所を見つけ、別行動だった友人とも合流しての撮影となった。

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 松崎~泊は少し線路が北を向いて走るためこの時間帯の光線は2/3面光。最もDD51の鼻スジがよくわかる光線だ。鼻筋をくっきりと浮かび上がらせながら「出雲」ヘッドマークも誇らしげに築堤を駆けあがってきた。

 この後も東浜、竹野、市島と追っかけて撮影し、満足感に浸りながら帰宅の途についた。寝台客車亡き今、青でこそなかったものの、往年のヘッドマークのレプリカを使用して客車列車を運転してくれたことに感謝感激の一言だった。

 

Report No.81 Ready

 駅と言うと、多くの人が想像するのはホームがあり旅客が乗降する場所だろう。だが、実際には、駅は大きく分けて2種類、旅客駅、貨物駅の2つがある。旅客駅は読んで字のごとく旅客が乗降するための駅。そして貨物駅は貨物の荷扱いを行う駅である。貨物駅はその性質上、旅客の乗降は行われないので一般の人からすると幻の駅と言ってもいいだろう。

 関西本線塩浜駅はそんな貨物駅の一つである。近鉄塩浜駅のすぐ真横に位置するJR貨物の塩浜駅は、信州方面への石油輸送を支える重要な駅である。塩浜駅からは昭和四日市石油への専用線が伸びており、毎日のように精製されたガソリンが信州へと発送されている。

 さて、塩浜駅は構内を公道が横切っており、夕方に発送される便をバルブすることができる。2017年1月5日、朝から四日市周辺で撮影していた。この日、夜はやはり75レの折り返しとなる6286レを塩浜でバルブしてシメることにした。塩浜についてみるとちょうど入れ替えがおわり6286レが発車を待っている状態だった。

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 牽引は赤鼻のDD51-825を先頭に、825号機と同じく三分割ラジエーターのDD51-1028との重連。この間まであまり巡り合わせ良くなかった825号機だが最近どうやら巡り合わせがよくなってきたようだ。念願だった塩浜バルブも撮影でき満足な一日であった。

Report No.80 Winter Present

 去る2017年3月4日、JR各社でダイヤ改正が実施された。今回の改正で個人的に一番驚いたのは愛知機関区DD51の石油運用である。今まで、石油運用は定期・臨時含め最大5往復設定されていたのだが、今回の改正で朝の5263レ~5282レ、および夕方の8075レ~6286レ(改正前75レ~6286レ)がDF200の運用となり、DD51が担当する残りの3往復は全て8000番台や6000番台の列車、つまり臨時便とされたのである。これには、2017年度からの四日市の石油製油設備の減産が影響しているという話もあり、将来的な減便は避けられないようだ。幸い、3月5日時点でDF200が四日市~塩浜間での試運転を行ったとの情報はないためDF200が受け持つこととなった2運用も、しばらくはDD51による代走が続くものと思われる。

 その他の運用を見てみると、コンテナ運用、セメント・フライアッシュ運用は改正前と変わらずDD51の運用として残存した。しかし重連が組まれるなど花形運用であった石油運用がダイヤ上臨時便にされたことは、愛知機関区のDD51の余命が幾ばくも無いということを如実に表しているように思えてならない。末期の日本海きたぐに、あけぼのなどがそうであったように定期からの臨時への格下げ、そしてしばらくしての設定なしという流れは想像にたやすい。ただし留意すべきは現状愛知機関区のDF200はDF200-223の1両のみであることだ。新たにDF200が追加配置されるまで、しばしはDD51たちの残りの活躍を見ることができるだろう。

 さて、この冬、1月16日に四日市周辺は記録的な豪雪に見舞われた。関西本線では雪による列車遅延やポイント不転換でダイヤは大幅に乱れ貨物にも運休が続出した。その翌日、1月17日はうって変わって午前中は快晴予報であった。雪景色を走るDD51を撮れるのはこれが最後かもしれないと急遽車を借りて四日市へ。朝の6287レ、5263レから狙えば雪をかくかもしれないと思い塩浜駅で構えたのだが、6287レは発送便が運休となっていたためか運転されず、5263レに至っては返却がなく重連回送。これでは収まりがつかないので藁をもつかむ思いで朝のセメント便を撮りに海蔵川へ。途中脱輪している車がありどうにも撮影地まで乗り付けるのは困難であったので脱輪していた車の後ろに駐車して雪に埋もれ道なき道となった農道を雪中行軍。なんとか通過5分前に定位置に着くことができた。

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 富田で留置を見るのを忘れていたのでどの罐が来るのかは完全にくじ引き状態だったのだが、やってきたのはDD51-825。A更新切り抜きナンバーの赤デコだった。雪に真っ赤な機関車。スノープローがないのが残念だが、雪景色の中スノープローなしの機関車というのも記録写真の意味合いとしてはある意味貴重かもしれない。

 今回の改正でも一応はDD51の運用として残ったセメント便。今後は石油便よりこちらがメジャーになるのかもしれない。

Report No.79 ニセコの思い出

 函館本線 長万部~小樽間、通称山線。かつてここはC62が牽引する「ニセコ」が走ることで有名だった。C62が引退して以降はC11がその後を引き継いで2014年まで「SLニセコ号」として運行していた。しかし牽引に用いられていたC11に新型ATSの設置が難しかったこと、JR北海道の財政難などから動輪の調子の悪かったC11-207が運用を離脱することになり、同時にSLニセコの運行も終了することになった。当時SLニセコの牽引に当たっていたのがこのC11-207。207号機は2灯式の前照灯、いわゆるカニ目が特徴的な罐である。

 SLニセコ最後の年、2014年夏、友人と共に渡道した際に、SLニセコを撮ることになった。SLニセコの撮影地としてまず外せないのが然別~銀山の首振りカーブだった。ここは、カーブまでが比較的長いストレートになっており、ちょうど羊蹄国道がオーバークロスする撮影地なので、ポジフィルムは広角で定番(Report No.39 黒鋼の記憶 - ぽっぽ屋備忘録

を、デジタルは超望遠で斜め上、正面からいただいてみることにした。

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 通過時刻、定刻で赤い盾型のヘッドマークを掲げてカニ目の機関車が濛々と黒煙を上げてやってきた。煙のおかげでちょうど後補機のDE10は隠れており、旧客の屋根だけが見える。超望遠の構図の中で徐々に機関車が大きくなってくる。いまだ!夢中でシャッターを切った。

 このときはもう207号機が走ることを見ることは今後できないものだと思っていた。が、現在このC11-207は東武鉄道に譲渡され、2017年夏から運行されるSL列車「大樹」の牽引に使用されることになっており、目下訓練が続けられている。そのうち、東武線に彼を見に行くのもいいかもしれない。

Report No.78 静寂

 稲沢から関西本線の塩浜まで約10時間かける中央西線からの石油返空列車6287レというのがある。稲沢~塩浜は営業キロで約52km、つまり表定速度にして約5.2km/h。保線用モーターカーもびっくりな低速度である。もちろん、これはあくまで表定速度であって、実際にこの速度で走っているわけではない。稲沢を22時44分に発車後、途中列車交換などを行いつつ0時13分富田まで来ると、富田で朝6時25分まで夜間滞泊となる。更に、6時25分に富田を発車後、6時34分に四日市に到着するがここでも運転停車があり、7時21分まで四日市で停車している。その後塩浜に向けて出発となり、終点の塩浜には朝7時30分に到着する。つまり、実際の走行時間は2時間程度なのだ。製油所の荷扱いや待避などの都合上このダイヤになるのだが、なんとも亀の歩みのような列車である。

 さて、運転停車のため富田駅では6時間以上停車するわけだが、その間ずっとエンジンをかけているわけではない。到着すると割とすぐにエンジンが止められ停車措置を取られて朝まで留置となる。6287レは季節臨列車であって、ほかのDD51の運用と連動しているわけではないので、運用が読みづらい。だが、前日発翌朝着でしかも富田駅で停車しているので、夜のうちに富田に行けば翌朝の6287レの牽引機がわかる。1月5日に四日市に訪問した際、富田駅で6287レをバルブするついでに罐番を確認しに行った。

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 夜の静まり返った住宅街でエンジンの火を落とし暗闇に身を潜めていたのはDD51-1147だった。思っていたよりも光量がなかったが、無風だったこの日、長時間バルブにはもってこいだった。バルブして確認してみれば元鷲別機関区所属機独特のラジエーターファンのクローバー板もきちんと前を向いているではないか。新年早々幸先のよい滑り出しとなった。

Report No.77 小旅行

 国鉄末期、大都市圏では新性能電車が導入され輸送改善がなされていたが地方電化路線はまだ数多く「ゲタ電」と呼ばれた旧型国電が現役で残っていた。旧型国電はいわゆる新性能電車とは性能が大きく違うため、運用上、保守上も制約が大きく、地方線区の輸送改善のためには旧型国電を新性能車両に置き換える必然性が出てきた。そこで地方線区向けに新しく導入されたのが105系であった。

しかし、折しも国鉄末期、国鉄の財政事情は苦しく、車両を新造する余力は十分にはなかった。そこで、余剰車両を改造して105系相当にすることになった。車両は主に常磐線運用から離脱した103系が対象となり、各地の地方路線へ導入されていった。そのうちの一つが和歌山地区に投入された車両は当初クリーム色にオレンジ色の帯を巻いた「春日色」という色をまとっていた。その後、和歌山線系統のみにこの春日色が残り、紀勢本線系統の105系はオーシャングリーンに白い帯という塗装に代わっていった。春日色の105系は通常和歌山線などの運用が主であり、新宮方面への入線は稀であったのだが、時たま検査の都合などで代走することがあった。2010年からは始経費削減策の単色化が始まり、春日色は随時オーシャングリーン単色に塗り替わっていった。単色化が進む中の2015年10月に紀勢本線トワイライトエクスプレス(

Report No.11 紀勢本線トワイライトエクスプレス<続> - ぽっぽ屋備忘録

)が運転されたとき、ちょうど春日色が紀勢本線代走運用に就いていたので海辺らしい風景で撮ってみることにした。

 やってきたのは、紀伊浦神付近の岬。岬にある漁港からは対岸の小さな港を望むことができた。背景には切り立った山、港には漁船も係留されているのでちょうど和歌山の海辺らしい風景だ。

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 しばらく待ってみるとお目当ての春日色105系がトコトコと駆けてきた。海、漁船、山、そして明るい春日色の車体。どこか懐かしい風景に心癒された。

Report No.76 転勤

 北陸新幹線長野〜金沢延伸開業はそれまで長野新幹線と呼ばれてきた北陸新幹線が本当の名前を取り戻した瞬間でもあった。同時に、それまで北陸方面と首都圏を結ぶ連絡網を担っていた特急列車、路線にとっては栄光の歴史の終わりを意味した。

 北陸新幹線延伸区間並行在来線となった北陸本線金沢〜直江津間はJRとしては廃線となり第三セクター鉄道へ移管となった。さらには、サンダーバード北越はくたかといった各種特急の運転区間短縮および廃止へ至った。

 この中で、それまで北陸、信越地方と首都圏への新幹線の連絡役を担っていた在来線特急「はくたか」の廃止により、北越急行に所属していた681系および683系は運用消滅のため北越急行からJR西日本へ移籍することになった。

北越急行に所属していた681系、683系と言えば、本家JR西日本所属車の少し地味目な塗装に対して白と赤を基調にしたスタイリッシュな塗装で「スノーラビット」の愛称の元、親しまれてきた。移籍にあたって、このスノーラビット塗装は随時塗り替えられることになったのだが、当時のJRの計らいなのか、移籍後数ヶ月間、スノーラビット塗装のまま「しらさぎ」の代走を務めていた時期があった。2015年5月2日、ゴールデンウィークの序盤、お昼頃にのこのこと起きてきて運用情報を検索してみるとどうやら夕方の「しらさぎ59号」にスノーラビット塗装の683系が入っているらしいということがわかり、大急ぎで支度し新幹線に飛び乗り北陸本線は坂田〜田村のストレートへ。この時期になるともうだいぶ太陽も北寄りに落ちるため前面にもいくらか日があたる。水の張られた田んぼのあぜ道に他のギャラリーの皆様の共に陣を張りスノーラビットを待った。

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 すかっ晴れの夕刻、踏切の音と共に赤い顔の転勤電車が軽快に北陸方面へかけていった。

 かつて160km/hで駆け抜けていた優等生たちも今や一介の特急車両になってしまった。時の流れとはいえ残念でならないと同時に「はくたか」の名前が北陸新幹線へ引き継がれたことは嬉しく思う。